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『ロバート・ライシュ: 資本主義の救済』(2017年)

 ジェイコブ・コーンブルースの『ロバート・ライシュ: 資本主義の救済』を観る。Netflix専用。ドキュメンタリー。

 クリントン政権下において、労働長官を担ったライシュが、現代の資本主義における巨大企業による権力の高まりについて警鐘を鳴らす、といったような内容である。おおむねライシュを軸とした語りを中心に据え、所々にアメリカ社会における抑圧されている人々の現在が語られ、監督による社会状況が整然と映し出される。淀みなく、あの小柄な身体で、そんなに激しい何かを持っていなさそうなライシュの口から、経済や社会、そして政治と権力について熱く語られてくると、だんだんとこちらも身を乗り出すようにして傾聴していくのだから、アメリカ人におけるスピーチ能力の高さというものを思い知らされるのだった。

 しかし述べている内容自体は非常に真っ当な内容であり、経済に道徳も不道徳もなく、ルールを恣意的に運用し、例外的に作るならば不道徳に、ルールに則って皆が経済に乗っかることができるならば道徳的になるのだ、と述べているところは思わず首肯した。

 ブレイディみかこの近著『労働者階級の反乱』(光文社新書)を読んでいて、思わず膝を打った表現があったのだが(該当箇所を思い出せないので記憶で書くが)、労働者は自分の働きによって自立したい、というような箇所で、実際彼らが憤っている不道徳とはまさにこういう事態なのではないか、と個人的には思っている。

  アメリカという国の特殊性は「アメリカンドリーム」とその裏側にある「自由」の観念だとは思うのだが――余談だがこの映画を観ていて鼻持ちならない瞬間というのは、ライシュ自身も取り憑かれている「アメリカ・アズ・ナンバーワン」的な価値観であり、まあそれこそがアメリカをアメリカたらしめているのだが、しかし沈み行く国に住んでいる身からすれば、ナンバーワンのくせに、とか思わなくもないよね――その「自由」とは野放図に儲けることも許される自由であるのだけれども、おそらくいつしかその「自由」はさまざまなルールの「例外」によって、不当に侵されてしまったのではないか、という直感だろう。

 ライシュは繰り返し「ルール」の重要性を語る。それはいわゆるがんじがらめの規制(岩盤規制)を維持せよ、ということではなく、ロビイストやダークマネーと呼ばれる企業の献金が無制限に認められるようになってから増大した企業の影響力によって、いくつものルールの例外が、(経済的なそれを基盤とした)権力に認められており、一般大衆にそのトリクルダウン的な事象が起こらない、というようなことである。市場の自由は政府のデザインによって初めて成立するのだ、といったようなことを述べており、これは聞いていてかなり説得的ではあった。

 もちろん映像の使い方によって、そのように誘導されたところもあるのかもしれないのだが、あえて言えば、ライシュの対立意見についても傾聴する姿勢を崩さず、また、さまざまな人々の意見を聞き、さまざまな人々の前に立ち続けているということが、結果としてそのように感じさせるきっかけとはなったのだろう。

 ライシュが書いた『最後の資本主義』はあいにく未読だが、いずれ読んでみたくもある。

最後の資本主義

最後の資本主義