Outside

Something is better than nothing.

家々の変遷

houses

 何十年か生きていくと、住んでいる場所がいつの間にか過去のものとなっていることはよくあることで、一箇所に定住するということはけっこう難しい。それだけの資本があるのであれば、半ば強制的にその資本の磁場に囚われてしまうことになり、それはもちろん地元も同様ではある。

 とにかく、東京などという砂漠に住まうということは、折に触れてその居住地を変更するということを意味するわけで、だからすでに東京に来てから十年が経過しているのだが、三回引越を経験することとなった。

 私は引越が嫌いだ。

 そもそも自分の荷物というのは雑多で面倒臭い存在であり、また自分の分身ですらあるので、それをある規則性によって選り分けていき、整理整頓、段ボールに突っ込んでいく作業というのは苦痛ですらある。

 だから、就職が決まって引っ越しするときに、翌日に迫った引越日にもかからわず、まったく整理ができておらず、やむなく当時の彼女(現在の妻)に泣きついて手伝ってもらった。彼女は言うのだった――「ひどい」と。まったく当然である。

 引越についてはいいとして、引っ越したあとも、私は元の住まいをたびたび訪れた。正直に言えば、自分の青春を過ごした場所ということもあって思い入れが深かったのだ。

 そのアパートは、私が退去する前後に老朽化のために建て替えるというアナウンスがされていて、仮に就職先に社宅がなかったら住み続けたかったなあ、という甘い思いは打ち砕かれてしまうのだったが、就職後しばらくしてそこを訪れると、未だにそのアパートは残っていた。

 どうやらまだ人が住んでいるらしい――と窓の様子を見て感じた。そこで住んでいた当時を思い返して、時間の経過について懐かしさを覚えていた。

 その後、一年くらい経って訪れると更地になっており、どうやら最後の一人に手こずっていたのだろう、誰もいなくなったアパートを大家の思惑通りに破壊することができたのだった。私は自分の居場所を失ったように感じられ、寂しく思った。

 またその一年後くらいに訪れると、そこは建設現場になっていた。いったい何が建つのかは分からなかったのだけれども、またアパートが建つのだと思い、そこに住む可能性というものを想像した。

 そして先日そこを訪れると、アパートは一軒家に変貌していた。

 私は呆然とした。すでに表札がかかっていた。誰かが住んでいるのだ。私の中にはもうそこに戻れるかもしれないという可能性が決定的に失われてしまっていた。

 家は立派で、そこに住んでいるのはおそらく幸福に包まれた人たちなのだろうと思われた。その堅牢さは、未来に向かって続いている。私が介在する余地がないくらいに、決定的なものとしてそこにはあった。もはや私は過去を物としては失ってしまったのだった。あの日々は、記憶の中でのみ生きるしかなく、懐かしさを喚起するための媒介はもはやこの世にはない。