Outside

Something is better than nothing.

『セッション』(2014年)

  デミアン・チャゼルの『セッション』を観る。

 マイルズ・テラー演じるアンドリュー・ニーマンはあまり友達もおらず、ジャズバンドでドラムを叩く毎日を過ごしているのだが、学園の有名人であるところのJ・K・シモンズ演じるフレッチャーに挑発されつつも見出され、彼率いるバンドにドラマーとして参加するも、さまざまなしごきを受ける。ほとんど鬱状態になりながらもドラムに、そしてフレッチャーに執着するニーマンは、自分からデートに誘って付き合うことになったメリッサ・ブノワ演じるニコルとも音楽のために別れることにして、ひたすらドラムに打ち込んでいくことになる。文字通り血のにじむような練習をしてフレッチャーに認められたニーマンは、晴れ舞台にバスの故障等さまざまなトラブルのために遅刻しそうになり、レンタカーを飛ばしている最中に事故に遭うも、頭から血を流した状態で演奏を行う。しかし、彼はまともにドラムを叩くことができず、フレッチャーに演奏を中断したときに、堰が切れたのか、殴りかかって退学になってしまう。その後、他にもフレッチャーの被害に遭った人ととも(ニーマンは匿名で)訴訟を起こし、フレッチャーはバンドの指揮を外れることになるのだが、ジャズバーで再開したニーマンはふたたびフレッチャーと同じ舞台に立つことになる。しかしフレッチャーは復讐をしようと思っており、ニーマンに対して新譜の譜面を渡さないなどの嫌がらせを行う。一度は舞台から去ろうとしたニーマンだったが、思い直して舞台に戻ると、フレッチャーの指揮とは別に、自分自身のテンポによって、舞台を牽引していくのだった。

 もちろん『セッション』が登場することによって、もともと有名でもなかったし、映画としての完成度も高いとはいえない(さまざまな「アンダーソン」の名を持つ映画監督がいる中でも、知名度の低い方に入るであろう)ブラッド・アンダーソンが監督した『セッション9』(2001年)は忘れ去られてしまうのではないかと思うのだが、個人的にこの映画の惜しさは「それらしさ」を演出しながら、そちらに振り切れなかったというところなのではないかと思うわけである。舞台は元病院であり、そこではロボトミーなどの現在では行われていない非人道的な治療が行われていた。その解体を担う業者が主人公となるわけだが、彼らは遅延に次ぐ遅延で、一向に作業が進まず、しかも不可思議な事象に悩まされることになるのだが、そういった抜群のサイコサスペンス的な素材があるにもかかわらず、このアンダーソン監督は料理しきれなかったわけで、おそらく『セッション』によって、検索にも引っかかりにくくなり、忘れ去られてしまうのかもしれない。とはいえ、個人的には今でも記憶に残る映画であり、映画としてのクオリティは微妙だと思うのだが、なぜか心に残る映画だった。

セッション9 [DVD]

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  『セッション』はしごきにしごいていくフレッチャー先生の鬼畜っぷりが、個人的にはどん引きであり、ゆえにこの被害に遭うニーマンに対しては可哀想という印象を受け、もちろんニーマンのドラマーとしての水準を底上げしようとしたフレッチャーの「指導」は、こと芸術に参画するための一定水準をまず超えようというところで理解はできなくもない。ただニーマンは19歳であり、判断力もあまり高いようには見えず、何より友人関係はほぼ絶滅しているようなので、孤独に陥らざるを得ず、彼のコミュニケーションはもっぱらドラムとフレッチャーになる。ニコルという恋人が一瞬だけ存在していたが、彼は結局音楽のために関係を清算してしまう。

 音楽については何も分からない私にしてみれば、なんでここまで音楽に執着するのだろう、他にも楽しく演奏する方法があるのではないか、と思わなくもないのだが、彼の孤独が音楽に執着せざるをえなかったということになるわけで、もちろんこれは「仕事」に置き換え可能である。

 たぶんほとんどのブラック企業や、あるいは仕事によって精神的な健康を崩す過程というのは、程度の差こそあれ、この映画のような孤独の問題とフレッチャーのような指導が含まれているに違いない。

 そういう意味で言えば、私はこの映画を映画として評価するよりもまず、個人的なものとして、自分自身に引きつけて考えてしまった。ニーマンの音楽への執着は、客観視したときには「どうしてそこまで?」と疑問に思ってしまうところだったが、渦中にいる人間としては、実際はそんなことはない。

 映画自体にも相対化の視線はあって、それはポール・ライザー演じるニーマンの父親であるのだが、冒頭に年齢を経ると視野が広がるみたいな台詞があったと思うのだが、けれどもニーマンは偉大な音楽家になりたいがために、フレッチャーの指導を求めることになる。

 そのニーマン自身の欲望のようなものを昇華したのが、最後のシークエンスということになるとは思うので、その部分については感動はした。ただ、これをもって芸術とは、音楽とは、仕事とは、と思うことはないのだけれども。