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『名探偵コナン 純黒の悪夢』(2016年)

 

  静野孔文の『名探偵コナン 純黒の悪夢』(2016年)を観る。

 以前に『業火の向日葵』公開記念で、Huluにて『絶海の探偵』までの劇場版作品をすべて観ることができた。なので一気に鑑賞したのだが、感想としては、回を追うごとにコナンのハリウッドアクションスター化が凄まじいというもので、ついでに『異次元の狙撃手』(2014年)と『業火の向日葵』(2015年)も借りて観たのだが、これもまた同様の感想を抱くのであった。

  

  少なくとも初期のこだま兼嗣が監督を務めていた頃は、推理物としての「名探偵コナン」があったのだが、山本泰一郎が初めて劇場版の監督をした『銀翼の奇術師』(2004年)辺りからアクションが全面に出てきたように記憶している。

 このこと自体は賛否があるだろうし、「名探偵」という言葉が冠されている以上、何らかの名探偵ぶりを発揮して欲しいというような気もするのだし、そもそもアニメ版を500話くらいまで観ている私としては、おおむね何らかの殺人事件を前提にしてストーリーが展開されていたはずだ、とも思うのだった。

『異次元の狙撃手』は冒頭十分以内ですでに現実的な描写を諦め、『業火の向日葵』はその点では多少はマシだったが、正直言って全般的なクオリティは決して高いとは言えない。

純黒の悪夢』はどうだったかと言えば、これも『異次元の狙撃手』同様に冒頭十分以内に現実を諦め、アクション映画になっているのだった。

 もちろん、だからといって即座に劇場版「名探偵コナン」とは唾棄すべき作品であると言いたいわけではない。『11人目のストライカー』(2012年)で顕著になったように記憶しているが、日本において銃火器および爆薬の使用を前提とした映画を撮るときの著しい限界が名探偵コナンにはつきまとっているのだった。

 スタジアムを完全に破壊できるほどの大量の爆薬を、いったいどこから調達したのか。ブラジルの叔父だとか説明されていたような気がする、拍子抜けの調達ルートは、しかし日本にいる限り、どうやっても大量破壊を前提にする代物は手に入れることができないのだ、ということの証左なのでは、とも思うのだった。

純黒の悪夢』では、ほとんど「軍事力」に等しい攻撃性能と殺傷能力を持ったものが登場するのだが、それは「黒ずくめの組織」や「黒の組織」という名前で呼ばれる、未だに正式名称がよく分からない、高校生探偵・工藤新一が江戸川コナンとして小学一年生になってしまった原因を作った、アポトキシン4869(APTX4869)という薬を投与したジンの所属する謎の組織によって、すべてがベールに包まれることによって何とか、かろうじて説明されることになる。

 また、最後の観覧車がぐるぐると回転して辺りのものをなぎ倒していく様は、リドリー・スコットの『プロメテウス』(2012年)のクライマックスにインスパイアされたものだが、ちょっと萎えた。あの観覧車はわざわざ北側と南側に分割する必要はあったのかと思ったのだが、もしかするとクライマックスにおける大虐殺を引き起こさないための配慮だったのかもしれない。

「ミッション・インポッシブル」シリーズで主人公のイーサン・ハントを演じるトム・クルーズのように、江戸川コナンはどれだけ傷ついても行動を止めない。日本式のヒーローは、しかし子供の姿をしているということも興味深くもあるのだが、けれども今はコナンくんの、今回は事件としての殺人は起きなかったこの映画における頑張りに、ひとまず敬意を示して、感想を終えよう。

[『プロメテウス』に触れた箇所を追記、記事の日付を変更]