Outside

Something is better than nothing.

リートフェルトの椅子

rietveld_red-blue_chair

線の力強さ

 どういうタイトルのついたものだったか忘れてしまったし、作家の名前すら忘れてしまったのだが、東京に来たばかりの頃に非常に抽象的な絵画を見に行ったことがある。

 たしかアボリジニにルーツを持つアーティストの、力強い線による抽象度が高い絵だったと記憶しているが、最近その線が妙に記憶からふと蘇ってきてちらつくことが増えた。

 すでに十年くらい前の話である。当時の日記を探してみたが、やはり名前も分からない。そもそもアーティストの背景も、本当にそれであっているのか不安ではある。けれども、名前は忘れてしまったが、彼女――たしか女性のアーティストだったことは覚えている――の「線」は記憶していた。

「何を描いているのか」「何についての線なのか」といった具体的な意味につながることはなかった彼女の線は、けれども十年後の自分の脳裏にふとした瞬間に蘇ってきて、「ああ、あの線はなんだったか」というだけではない、何か強烈な記憶を思い出させているのである。

Lines

ダン・デザイン

 その強烈な記憶によって、ふだんはあまり行くことのない展覧会に足を運びたくなって、東京オペラシティで開催している「オランダのモダン・デザイン リートフェルト/ブルーナ/ADO」展に行った。

 久々にこういう場所に訪れたことになるのだけれども、かといって昔は足繁く通っていたかというとそうでもない。ちなみに今回これを選んだのは、図書館で本を借りたときにしおりが置いてあり、それが割引券として使えるからという経済的な理由からである。

 だからそもそも展覧会で扱われている対象は、せいぜいブルーナくらいしか知らず(とはいえ「ミッフィー」の作者と言われて、「ああ、そう」と思うくらいなのだけれども)、寡聞にしてリートフェルトとADO(コー・フェルズー)について知らなかった。

 ホームページの説明文から引用すると、

リートフェルトは、富の象徴としての伝統的な家具に飽き足らず、真に現代的な生活のための新しい家具や建築を模索し、モンドリアンらのはじめたオランダの前衛芸術運動「デ・ステイル」(1917-32)に参加しました。デ・ステイルは、三原色と直線というもっとも基本的な造形要素によって新たな環境を生みだすことを目指していました。リートフェルトの名作椅子《レッド・ブルー・チェア》(1918-23頃)は、デ・ステイルの色彩とともに、材と材を互い違いに交差させるユニークなジョイント構造で際だっています。それは、家具の新しい概念と、のちに建築にまで広がっていく独自の空間性をきりひらくものでした。

 ということであり、ADOは、

1920年に開業したアペルドールン近郊の結核療養のためのベラハ・エン・ボッス・サナトリウムでは、回復の最終段階にある患者を対象に、木工制作の作業療法(労働セラピー)が行われていました。ADOの玩具シリーズは、この作業療法が1925年に企業化されたことで生まれました。美術に詳しいデザイナーのコー・フェルズーが責任者に任命され、彼のデザインと指導のもと、患者らによって制作されたのがADOの玩具シリーズなのです。ADOは「Arbeid door Onvolwaardigen障がい者による仕事」の意で、患者達には賃金が支払われ、彼らの回復と社会復帰の手助けとなりました。ADOは造形を通した社会的な実践だったのです。

 ということである。

造形の美

 それぞれ三者三様に興味深いところがあったのだが、ブルーナは震える線とその色彩、ADOについては主に自動車を扱った玩具が多かった。前者はイラストレーションの変遷を見ているとけっこう楽しく、見ていて飽きなかった。後者について、子供ならば「ぶーぶー」と言っていたであろう自動車の、もともとが玩具的な存在でありつつ、単純化されたフォルムに潜む曲線の美しさと木の質感の融合が、実際に触れることは叶わなかったけれども見ていると子供時代の手触りを想像させてくれて楽しかった。

 いちばん容積的にも占めていたリートフェルトは、写真や図面、ビデオを使ってのシュローダー邸について機能的な美しさを楽しみつつ、やっぱりたくさんあって有名な椅子たちが見ていてもっとも楽しいものである。

 説明文にあるように前衛芸術運動に影響を受けた非対称性を意識した家具作りを行っていたらしく、前述したシュローダー邸の、ある種徹底した非対称性は彼が生きた時代を想像してみても信じられないくらい現代的であり、ここまで徹底されるとちょっとおかしみを感じるくらいだった。

椅子の美しさ

 非対称性を徹底した中で、椅子という、だいたいにおいて対称的な作りになっているであろう代物にそれを持ち込んだときに、いったいどういう代物に仕上がるのか。

 最後の方でブルーナの日本語訳の絵本と一緒にリートフェルトの机と椅子が堪能できるスペースがあり、座り心地も試すことができる。座ることはできなかったが、個人的にもっとも面白かった椅子は「ステルトマン・チェア」だった。

 どの角度から見ても、違った装いを見せてくれるその椅子は、後期に作られたこともあるのかリートフェルトの作り手としての円熟がうかがえ、また説明文には「エロティシズム」すら感じられるという代物だった。

Thrift Score!

実用的であること

 過剰な装飾から離れた実用的な美しさというものは極めて好ましいものと感じられる。その主要な展示を終えたあとに、別の展示の絵画をいくつか見たのだけれども、その幻想的な画風の割に美しさという観点からすれば遠いところにあるような気がするのだった。そこにあったのは退廃した生の疲労感のようなものだけであり、リートフェルトが持っているような実用性を伴った生活への活力といったものは感じられない。

 そういえばスティーブ・ジョブズが作ったiPhoneは、iPhone7となった今では少しあれなところがあるにせよ、スマートフォンとしての一つの到達点を示すとともに、手触りとして記憶に残るものだった。私はiPhone4を持っていたが、特にケースをつけることなく使っていた。その手触りは、まるで椅子のように生活の中にあった。

 リートフェルトの椅子は一見するとその非対称性が非実用的に見えてしまうかもしれないし、実際私は最初はそういう印象を受けた。けれども、実際に座ってみて「ちょっと座りづらいかも」という感想が変化した。割合しっかりと、そしてしっくりと来る座り心地で、ブルーナの正方形の絵本を眺めながら、ひとしきり心地よい時間を過ごすことができた。

【関連記事】

joek.hateblo.jp

 前回は春画展に行ったので、おおよそ1年ぶりに美術系の展覧会に足を運んだことになる。