Outside

Something is better than nothing.

若さにとって走るとは

RUN

 年老いたという感覚が分かろうはずもない、未だ若いと言われる年齢であるものの、しかしかといって掛け値なしに若いというわけではなく、若さというものが少しずつ手のひらの上からこぼれ落ちていることを感じる年齢になった。しかし、それがいったいどういう意味合いなのだろうということをつらつらと考えると、思い至るふしがあることに気づく。

 それは走ることだ。走ることが、若さにどう関係するのか。例えばマラソン選手は、別に若さによって走っているわけではない。若さというものはガソリンではないのだから。

 ここ最近、妻と一緒に走ることが増えた。運動不足を解消する目的ではあるのだが、そのときに近所の公園を利用している。夜八時くらいから、だいたい一時間弱くらいの間、歩いたり走ったりしているのだが、その公園には球技ができるスペースがあり、そのスペースで中高生と思しき男の子たちがサッカーをしていた。

 わいわいと叫んだり笑いながら彼らはサッカーをしているのだが、ああもボールを懸命に追いかけられると羨ましく思う。妻と一緒に走りながら、そんな体力はない自分が情けなく思えてくる。

 彼らはサッカーという球技を遊びとして行いながら、同時に少し休憩するようなタイミングでも、ちょっかいを出して追いかけっこをしていたりと何かにつけて走ることが多かった。

 たしかに私も若いとき、彼らのように特に意図することもなく走り回ることが多かった。運動が好きというわけでもないけれども、走ることが妙に好きだった。夜中に、走ろうと思って小一時間くらい走ることもよくあった。なんとなく脚を動かしていると、それだけで楽しかったのだ。体力をつけたり、筋力をつけたりといった意図はあるにはあったが、純粋に走ることが楽しかったのを覚えている。

 私が住んでいたところは田舎だったため、誰にも見つかることなく、昼とは表情を変えた田舎の夜道を走っていた。人や車が来ると、疚しいことは何もないにもかかわらず、気恥ずかしさが先行して暗がりに隠れたりもした。犬の散歩で出歩く人に驚いたり、あるいは悲鳴こそ出さなかったが明らかに驚かれたりもした。中学校に赴いて、その周りを一周して怪しい人影を見つけたこともあった。それが先生だったのか、何らかのいたずらを試みようとした何者かだったのかは分からない。けれども、夜の不気味ではあるが無表情な優しさが、走るということの単調さを包んでくれていた。おそらく昼間に走ると、まったく違う印象を持ったに違いない。

 一度だけ、夜に鬼ごっこをしたことがある。

 高校に入学したばかりの頃で、買ってもらった携帯電話を有効活用しようと、中学のときの友達を呼んで、携帯電話を活用したヤミオニ(とそのときは呼んだ気がする)をした。さすがに田舎なので、夜には真っ暗になっている広場で、互いの携帯電話を鳴らしたりライトを使いながら、かくれんぼと鬼ごっこを融合させたような遊びをした。単純に遊びたいがために、夜に走り回る。友達も、暗闇の中では誰が誰だか分からない。夢中で走り回って、鬼に捕まらないようにする。けれども、どこからか手が伸びてきて、自分が鬼になる。携帯電話を鳴らして、隠れている友人を探し出す。

 闇の中でじっとりと汗を掻く自分の体が、まるで自分にとって異物であるようにも感じられた。この無我夢中の最中に、私は疲れ始めているというようなメッセージを出す体が。

 捕まらないように走る自分が、いったいなぜ夜中に集まって鬼ごっこなんかやっているんだろうという常識的な疑問を置き去りにしていく。身体さえ忘れて、走る意識だけが駆け回っていた。

 私にとって、走るとはそういうことだったはずだ。けれども、いつの間にか私の中に走ることの意味が付け加わっている。あるいは、当分の間走っていなかったことによる肉体の衰えが、走ることに過剰な意味づけを行っていた。

 じっとりと汗を掻き始める身体に、ああ、運動を行っているなと意味づけを行う私は、妻と一緒になってその日のメニューをこなしていく。若い彼らは、休憩を終え、ふたたび薄暗い照明の下、サッカーを再開した。おそらく彼らも、ボールを追いかけて走り回りながら、彼ら自身の走る意識だけがそこにあることを無意識に感じ取っているのだろう。楽しそうに叫びながら、夜の闇をサッカーボールが切り裂いていく。