Outside

Something is better than nothing.

皮膚の反発について

 これは私のオリジナルの考えではなく、大学の講義の中でか、本の中で読んだ記憶があるのだが、存在における特徴というものは――皮膚の張りを思い出せば、とは思うのだが――皮膚の緊張している状態が彼我を分けるしるしとなる。皮膚によって隔てられた外部と内部とが、皮膚の緊張している様で見て取れ、その緊張によって私たちは「私」として考えることのできる身体を持つ。皮膚に張りがある人は、どこかしら生命力に溢れているように感じられるのは、そのためだろう。これまた受け売りだが、ひなたぼっこをする人の寝転がっている場所に座りたいと別の人が望んだとき、「ここは私の場所だ」と断ったことが、すべての所有の始まりだ、といったたとえ話があり、これはよくよく考えると緊張する身体を持つ私たちの、その場所にあるということの別の側面なのではないか、とも思う。つまり、緊張する身体は、皮膚の張りによって、その場所を占有した際に、他者を退けるからである。その弾力によって、他者はその場所を占有する者の身体の反発に出会う。当たり前の話で、占有と述べたが、そこに存在していることの証左が、その場所に重なろうとしたときの反発だとすれば、皮膚の張りが結果的にもたらす反発は、私たちが存在することのまず第一の身体的な反応と言えるだろう。「私」が今ここにいる、ということは、同時に「あなた」が今ここにはいないということであるのだから、そのための物理的な反応としてまず最初にあるものは皮膚の反発なのだ。
 そして死を考えるとき、私の脳裏に浮かぶのは、手の甲の皮膚で、子供の手の甲をつねるとすぐに皮膚が元の形状に戻るのだが、だんだんと歳を取るとこの戻りが悪くなる。この張りの喪失は、老人と呼ばれる年齢になるにつれて、だんだんと時間がかかるようになる。はっきりと目に映る速度で、皮膚は元の形状に戻っていく。皮膚の反発は、だんだんと緩くなっている。水も若い頃のようには弾かない。反発する力を弱めてしまった身体は、だんだんと死の世界に近づいていっているかのようだ。九相図をふと思い浮かべたが、やがて内部のものが外へと染み出していく様は、死を迎えることで反発することが不可能になったことを想起させる。
 あるいは性交は、今ここに同時に存在できないことを超越するものだ。性交は一方の身体が他方の身体に侵入することで基本的には成立するものだが、そのときに身体は反発しながらも、何とか互いの存在を今ここにあらしめようとする。雌雄の結びつきの果てに新しい生命を宿すのであれば、固有の存在として今ここにあらんとした二つの身体が一つに溶け合うことで、別の個体が生じるということになるわけで、子が親に似るというのは遺伝子レベルではなく、ここでの文脈としては、二人が一つになったものとして子が生じるという因果があるからなのかもしれない。
 最後に、私が反発する皮膚を持つものとして一つ物質的なものを想起するならば、「壁」を思い浮かべる。壁は、彼我を分かつものであり、壁がそこにあるときに他者はそこには侵入できない。四方八方を壁で囲まれた部屋の中にいる「私」は、その「私」自身が一個の身体であるのだが、同時に壁が「私」の二つ目の皮膚として彼我を分かつ身体である。そのときの「私」は、「私」そのものであると同時に、壁という反発する身体にとっての何ものかであることは間違いない。