Outside

Something is better than nothing.

水族館・春画展・「私」の変質

 保坂和志の『遠い触覚』は、デヴィッド・リンチの『インランド・エンパイア』(2006年)についてかなり割かれており、割かれておりと書きつつ、そこに書かれている文章は、のらりくらりと直接的な対象としてでなく思考の流れとしてこの映画を考えている。

 先日、品川にあるエプソン アクアパーク品川に行ってきたのだが、そこは水族館で、私はおそらく十数年ぶりに水族館に足を運んだことになり、対照的に動物園は足繁くというほどでないにしても、ここ数年で何度か足を運んでいる。なぜ水族館は、と思うのだが、行ってみると、実に魅力のない場所で、そこには陸上の動物には確かにある肉体がないのだった。

 魚が、ひ弱だと言いたいわけではない。空間に占める質量の、感覚的ではあるものの重量感が、陸上の動物とは違い、常にたゆたう運命にある水生生物にはあまり感じられないのだった。だから私は上野動物園不忍池で出会ったペリカンの、信じがたいほどの美しさを忘れることはできない。あのペリカンは、空間に占める存在感の、確かな迫力が――おそらくこれを生命力と人は言うのかもしれないが――違うのであった。

 その帰り、妻と一緒に山手線のホームで電車を待っていると、女性に話しかけられ、「あっ!」と気づくと、それは以前のバイト先(妻ともそこで出会った)の元社員さんで、旦那さんと子供を連れて遊びに来ていたそうだった。私にしろ妻にしろ、数年ぶりの再会となったのだが、以前と雰囲気が変わって、落ち着いた、幸せに満ちた表情をされていた。

 これは昨日であるが、永青文庫の春画展に足を運んだ。最寄駅が目白駅とあったので、特に地図を確認することもなく山手線で降り立つと、歩いて二十分ほどかかることに後に気づき、しかし妻と二人、お散歩気分で歩くことになるのだが……春画は、例えば教科書的なもので目にする機会はあっても、実物を見たことはなく、そういえば以前に江戸時代の文芸について勉強しているときに、春画についても触れていたなあと思い返すくらいで、主要な興味の対象、というわけでは決してなかった。

 永青文庫に入ると、年齢層はぐんと上がった印象を受け、若い方も何人かいらしたようだが、目につくのは年寄で、しかし女性は少なくはなかった。この展覧会のことを見知ったネット上のニュース記事でも、もともと大英博物館で開かれていたこの展覧会は、決して男性を性的に喜ばせることを目的としたポルノではなく、性について多様な考え方を内包した娯楽的な春画を扱っている(そういう意図を持っている)、ということから、女性客が多かったそうである。

 中身はというと、大満足の出来栄えで、私はこれまで春画をかなり一面的に捉えており、(教科書的なもので見た春画における)描かれ方自体がさほど好みではなかったので、春画そのものよりも題材の取り扱い方の方へ興味が傾いていた上での展覧だったが、実際は春画自体、かなり楽しめるものとなっていた。

 というのは、前述しているが、これは「ポルノ」ではないのである。決してそういう反応がなかったと断言まではしないが、性的興奮を主として目論んでいる絵ではなく、性に対する多様性やおかしみ(趣や笑いを含めた)、男性器や女性器のグロテスクでありながら興味を引く一種の神性(あるいは妖怪性)、男女の仲(恋)における機微の細やかさを楽しむもので、正直なところ言葉でこの楽しさを表現することは難しい。ただ、セックスの最中にある男性や女性の表情の、あの妙にリアルな様は、つまるところ私たちと彼ら・彼女らとが過去と現在とに隔たってしまった存在ではなく、快楽において繋がっているのだ、と思わせるところなども笑える。

 春画自体の文化的な役割というのも面白く、コレクションの対象になったり、特注で作らせたり、日清・日露戦争では兵隊が持ち歩いたりするなど、実に面白い。

 さらに私たちのように、萌え絵などの差別性を孕んだ絵やイラストに慣れ親しんでいる人間にとって、(ちょっと雑だが)春画にある罪のない肉体とでも言おうか(杉浦日向子の『YASUJI東京』に罪ある肉体=西洋画に出会った衝撃が描かれていたような気がする)、そういう平面性を湛えた絵を逆輸入的に見る面白みがそこにあるような気がするのであった。

 とりとめもなく最近あったことをつらつらと書き連ねてみて、なんとなく共通して考えていたことは、「私」の変質ということで、これはいちばんはじめに書いた保坂和志の『遠い触覚』で触れられている、同じくデヴィッド・リンチの『ロスト・ハイウェイ』(1997年)の中の、ある人物が目覚めるとまったく別の人間になっていたという、リンチ自身はO・J・シンプソン事件にヒントを得たと言っているらしい映画で、しかしこの変身のリアリティはどこにあるのだろうと、ここ最近、特に大した着地点の予想もなくつらつらと考えていたのだった。

 確かに日常的な思考の延長線上には、「ある人物が別の人物になる」ということに対してのリアリティはないのだが、しかし「私が別の私になる」と置き換えたら、かなりリアリティがあるよなあと思ったのは、本日、神保町駅のホームに向かおうとしている瞬間、階段を上ろうとしていたときのことであった。その瞬間に私は「私」ではない、ということに思い至り、私はびっくりしたのであった。

 例えば科学的な見地からすれば、たしかに私と呼ばれているものは、細胞分裂の果てに、いつの間にか私と思っていた地点の私とはまったく別物になっている、というそういう意味ではなく、私は「私」という連続性を保持できていない、ゆえに私は私でありながら、かつての私とは違う存在になっている、といったもので、これもまだ論理性の入り込む余地を残しているが、私としては納得ができた。

 つまりこの連続性の絶えざる意志こそが、私を「私」たらしめている存在であり、世間では一貫性とか、まあいろんな名称で呼ばれている自分自身を何か外部のものに固着させる「言葉」である。この固着させるための言葉こそが、私としての連続性を生み出すものであり、この連続性を意図的に断絶させることは可能であるがゆえに、「私」は変質したのであった。社会人になった当初は、まだ私は「私」としてあったと思うのだが、そこからかなり意図的に断絶を目論んだ結果、明瞭な分水嶺としての時間帯は分からないのだが、今の地点からすれば私は「私」ではないと確信できる。

 思考の微妙な癖などもは継続しているようで、どこか欠損があり、その欠損が私を「私」たらしめていない。リズムが違ってしまっているのだ。だから私は『ロスト・ハイウェイ』が好きで、初めて観たリンチの映画もこれだったが、ある意味で衝撃的すぎて二度しか観ていない。そして変身自体が、「うん、まあそうだよな」的な思考で観ていたのか、さほど驚けなかったような気もするのである。