Outside

Something is better than nothing.

世界の果てという概念について

 世界の観念性は果てしない。誰しも世界の中に存在しながら、世界それ自体についての認識は、個人の埒外にあるのだった。つまるところ、世界の中心や世界の終わり、さらには世界の果て、というものはどこにも存在しない。どこにも存在しないがゆえに、我々の想像力を強く喚起する語であることは否定できない。
 私は世界の果て、という言葉がいつの間にか好きになってしまっていた。昔はあまり好きではないのだが、この世界の果てという言葉について考えていくにつれて、不思議なほどにこのことについて考えることが増えたのだった。
 世界の果て。
 世界の果てを目指した、という文句を考えることもできる。私たちは今、世界の果てにいるのだった――とか。しかし、よく考えてみると、それはどういうことなのか。そしてこの果て、という言葉にまつわるイメージの違和感に出会ったのは、安倍公房の『壁』がまず最初だった。

(…)「さて、ずっと以前、と申しましても、みなさんがこの世に存在するよりはまだ昔のことです。地球がまだ平たい板で四頭の白象に支えられているとか考えられていたころ、世界の果、それは当然極度に密度の拡散した周辺地帯として解釈されていました。しかし、現代、地球が球体になってこのかた、すっかり事情が変わったのはみなさんも御承知のとおりです。すなわち、世界の果という概念も、むしろその言葉のもつニュアンスはまったく逆の相貌を呈してきた。つまり、地球がまるくなったので、世界の果は四方八方から追いつめられ、そのあげくほとんど一点に凝縮してしまったのですね。お分かりでしょうか? もっと厳密に言えば、世界の果はそれを想う人たちにとって、もっとも身近なものに変化したわけなのです。言いかえると、みなさん方にとっては、みなさん自身の部屋が世界の果で、壁はそれを限定する地平線にほかならぬ。現代のコロンブス的旅行者が船を用いないのも、うべなるかな! 真に今日的な旅行くものは、よろしく壁を凝視しながら、おのれの部屋に出発すべきなのであります。」(『壁』新潮文庫、110-111頁)

 このイメージが実に鮮烈で、私の小説を書くときの一つのテーマとして、この世界の果ての概念が生じたのだった。平面における世界の果て概念については、文字通り果てを想像すれば事足る。しかし、球体における果ての概念は、平面上の果てが丸くなっていった結果として考えれば、それはどの地点でも果てと言いうるものになってしまい、この文脈では各々の部屋であるというものなのであった。
 この部屋というテーマもまた、私にとっては重要なものなのだった。これは次に書くとして、最後にフェルナンド・ペアソも世界の果てについて触れているものがあるので引いておこう。

「いかなる道も、このエンテプフルの道でさえも、おまえを世界の果てへと導くだろう」とカーライル[『衣装哲学』]は言う。しかし、世界一周が果たされ、世界が知りつくされて以来、世界の果てとは、出発点であったこのエンテプフルそのものになってしまったのだ。実際、世界の果ても、世界の始まりも、世界にたいする観念に他ならない。(『不穏の書、断章』平凡社ライブラリー、269頁)

 かくしてこの球形の世界において、世界に対する多様な観念が誰しも想像するほかない世界を規定しようと画策され、世界の果ては己の部屋であるはずなのに、最初に挙げたような多様な使われ方をされているのだった。