Outside

Something is better than nothing.

要すれば言葉、というより他はなく

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 金井美恵子の稀有な批評であり言葉そのものの記憶でもある『〈3.11〉はどう語られたか: 目白雑録 小さいもの、大きいこと (914) (平凡社ライブラリー か 38-2)」』を読んでいると、こんな小さなことでさえもここまで言葉を語ることができるのだという、金井の持つ(確かどこかインタビューか何かで言っていたような覚えがあるのだけれども)記憶力の凄まじさと、それを言語化する作家としての力量の凄まじさの両方について、書かれたことの中身とはやや違う観点からも感心するしかないものなのだが、翻ってみると、しかしこれは言葉そのものであるとしか言いようがなく、ブレイディみかこが『ワイルドサイドをほっつき歩け --ハマータウンのおっさんたち』の中で紹介していた「TAKE CONTROL」か「TAKE BACK CONTROL」なのかといった違いでもあるような気がするのだが、東日本大震災の中で語られた言葉については私も阪神淡路大震災のときとは違って明確に意識を持っていた(というか、私は今回は位置的にも日本にいた)ので、なんとなくの記憶は持っているのである。

 それが前回の記事ということなのかもしれないが、私も最近では小説をまったく書かなくなってしまい、もっぱら書くといえば仕事上で誰かしらにメールを打ったり、資料を作成したりを指すようになってしまい、しかしそれは私の文学的営為といえば営為であって、それそのもののクオリティというのは別の観点から見るべきだと思うが私の活動自体は、まあそういうものとしてある。私の記憶はいろいろとあるというこのいろいろは乱暴であるのだけれども、そのときは日記を書いていたのでかなりのことを日記という補助線を通して思い出すことができるのだが、東日本大震災の後、数年経って私は小説「過去改変」の中で、関東大震災朝鮮人・中国人の虐殺を取り扱った章の中で、かなり時間がかかって向き合ったのかもしれない、と金井の本を読んでいる中で思い出すことになった。

 読んでいないが、【定本】災害ユートピア (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)という本の中で災害時における自然発生的な、利他的な行動を取り上げており、これは世界中のさまざまな場所で見受けられる現象である、と書かれているが、もちろんこの中にも例外があって、それは関東大震災である、といったことをこの本を取り上げる者はよく言うし、金井もそういった観点で触れている。

 熊本地震の発生の後、私は二週間あまり熊本に復興支援のために会社(東京)から派遣されて社会インフラの維持のために仕事をしたのだが(とはいえ、それはどちらかというと会社上のパフォーマンスでしかないもので、他の方々の支援とは比べものにならないものである)、そこの中で経験したものは確かにどこか利他的なものだったのかもしれない、と今になって思う。奇妙な共同生活とまで行かない共同生活を送り、不思議さはあったけれども、やはりその地震が仕事上は終わった途端にユートピアは終わった。

 関東大震災における虐殺を調べていく中でもっとも印象的なものは、私自身も小説の題材にしたある考えで、例えば井戸に毒が、とか爆弾が、とかそういった流言飛語が飛び交ったときに、その流言飛語自体には実は科学性も何も担保されておらず、では国内においてどの組織が一斉蜂起的なニュアンスでこの混乱の最中、行動できるのか、またその準備を官憲に悟られずにできたのか、ということで、しかしひとたび混乱が起きてしまったら、その科学的な(そして冷静な)前提は脇に置かれ、目先の恐怖心に囚われ、まったく別の論理的帰結に基づき、「敵」が生じてしまう、ということで、今私は冷静にこれを書くことができるが、同じ立場に置かれたときに果たしてそのように行動できるかは自信がない。何より私自身が「敵」の側に立たされてしまうのかもしれず、昨今の言説を見る限りにおいては「敵」は一切の言葉を持つことはできないのである。

 金井の持つ、私からすれば驚異的な記憶力は、こういったさまざまな些事の積み重ねの果てにある、大きな過誤を多少なりとも把握可能にしようとする営為であろう。十年前、私が、あなたが、何を思い、何を語ったのか。十年という月日はほとんど永遠のように遠いような体感とともに、同時にたった十年という短さである。

『ジョーカー』(2019年)

ジョーカー(字幕版)

ジョーカー(字幕版)

  • 発売日: 2019/12/06
  • メディア: Prime Video
 

 トッド・フィリップスの『ジョーカー』を観る。

 ゴッサムシティで暮らすホアキン・フェニックス演じるアーサーは、精神的な病に侵されつつも、フランセス・コンロイ演じる母親ペニーと暮らしている。彼は人を笑わせたいという目標を持っており、コメディアンを目指しているが、自分の意思に関係なく笑い続けてしまうため周囲からはなかなか理解されない。ある日、仕事で広告のための看板を持っていたところ悪ガキどもに攻撃されたことをきっかけに、グレン・フレシュラー演じる同僚のランドルが拳銃を渡したことで状況が変わっていく。ザジー・ビーツ演じる同じアパートに住むシングルマザーのソフィーとの恋愛妄想が止まらず、またロバート・デ・ニーロ演じる人気司会者マレーの番組に出る妄想が進んでいく。誤って小児病棟でのパフォーマンス中に拳銃を落としてしまったことから仕事はクビになり、その帰り道に地下鉄で酔漢に絡まれた挙句に三人とも射殺してしまったことからアーサーは狂い始める。ペニーの手紙からブレット・カレン演じるトーマス・ウェインの隠し子である可能性が出てきて、彼女の言を信じてウェイン家に行くものの、ダンテ・ペレイラ=オルソン演じるブルースとの邂逅を果たすものの、執事のダグラス・ホッジ演じるアルフレッドに阻まれて心ない言葉を吐かれる。母親は脳卒中で倒れるが、以前にコメディを披露した様子がマレーの番組で話題になり、ジョーカーとあだ名された彼は番組出演のオファーを受ける。街中でアーサーの犯罪をきっかけに富裕層への反発が起きる中、チャリティーの会場に乗り込んだアーサーはトーマスに邂逅し、自分の父親ではないかと詰め寄るが、彼女にも妄想癖があるということを冷たくつげ、殴りつける。その後、病院でブライアン・タイリー・ヘンリー演じる事務員カールの一瞬の隙を捉えて母親のカルテを盗み出したアーサーは自分が養子であること、母親に愛されていなかったこと(虐待を受けていたこと)を知る。マレーの番組出演のため、自宅でピエロの扮装をしている最中に、ランドルとリー・ギル演じるゲイリーが訪れ、彼はかつての怒りからランドルを殺害するも、ゲイリーはそのまま逃がす。番組出演したアーサーは、かつてマレーが呼んだようにジョーカーとして出演することを依頼し、そしてその番組出演中にマレーを射殺する。彼の意図はアーサーを笑い物にすることだったからだ。その罪で警官に移送されている途中、街で起こった暴動に巻き込まれ、彼はパトカーから抜け出すことになる。そして皆が見つめるその場所で踊るのだった。そしてたまたま劇場に来ていたウェイン家は暴動に巻き込まれてしまい、裏道から逃げようとしたが、暴徒に襲われてブルースだけ生き残ることになる。場面が変わり、病室にジョーカーがいる。ジョークを思いついたと言うジョーカーに対し、カウンセラーはそれを言うように頼む。しかし、彼は理解できないだろうと延べ、その後、血の足跡を床に残しながら逃げ回るのだった。

 不安な要素が画面に塗りたくられてずっと観ているので、今か今かとまるでホラーを観ているような、そんな印象を受けるものだった。物事は一つも良くならないし、永遠に悪化し続けるのだ、というような、そういった暗い予感に苛まれ、出口のない妄想に囚われるような、あの不眠の夜。そういう印象を受ける。青みがかった画面に灯される光の、なんと頼りないことか。

 音楽は取り留めのない印象を与え続け、露悪的な気もする1980年代の時代設定が時代の心理的な同定を難しくするような気もするのだが、紛れもなく現代の話であって、おそらく現代ならばジョーカーはYouTubeなどのインフルエンサーとしての役割だったのだろうと思う。

 また、テロリズムについても同様であって、この暴動やテロにおいては爆発物は使われておらず、要するにこのご時世におけるテロというのは(あの自宅において殺されたランドルの受難と同様に)ハサミ一本でも可能であるのだし、たかだか拳銃一丁だけでも可能である、ということであろう。

 この逃げ場のない貧困の、少しずつ追い詰められていく様は観ていて嫌なもので、嫌味のようなチャリティー会場での『モダンタイムス』が苛立ちを募らせる。地味な描写だが、トイレの場面でアーサーが突っ立っているのに、身支度に夢中で存在に意識を払わない紳士の存在が、明確に階級差(一方にとって他方は「存在しない者」)を描いている。

引越しのこと

Möve

 二度目の緊急事態宣言が発出されたのが一月八日だったと思うが、それが発表されたのが前日で、我が家は微妙な時期に引越しを行ってしまうことについて非常に不安な心持ちでいた。そもそもいつなのか、あるいは発出されたとして引越しができるのか、と。

 結論から言えば引越会社はきっちり仕事をこなしてくれた。今のところ感染症に類する症状も出ていないので、どうやら感染はしなかったらしい(無症状ならば分からないのだが)。

 七年あまり住んでいた住居を出なければならないということは二年ほど前から分かっており、そのための家探しも行っていたのだが、まさか転居のタイミングがそういう時期になろうかとは想像だにしなかった。しかし、どのみち引越しをせざるを得ないことや、時期によって料金の上下がある料金体系からするとこの時期の引越しを逃すとかなり金額的にしんどいかもしれない、ということで行うこととした。

 今もってマクロな視点においてその判断が適切だったのかどうかということについては判断は保留せざるを得ないのだが、ミクロな観点で言えば結果論としては正しかったと思う。しかし、しかし、しかし、という保留がその正しさにはつくものの。

 不確かさとともに、あらゆる活動に感染リスクがつきまとい、感染したとしても無症状がありうるというときに、引越しという感染リスクが高いように思われる活動が、しかし人事異動や私のように出なければならない事情等がある際に、どう行動すべきなのか、その辺りについてよく分からない状態であり、こんな個別具体的な事象については政治が介入することはないのだろうが、衣食住の一つを占めるこの住むことにまつわるあれこれが、個々人の運用に基づいている、ということの重たさについて、今回はっきりと理解したような、そんな気持ちになるのだった。

 もちろんその後、住民票や個人番号カードの更新のために役所に行ったり、銀行口座の住所変更、ガスの開通確認等を行うことになったのだが、これもまた引越しにまつわるあれこれが個々人の運用に紐づいており、また基づいているということで、あれやこれやで結果的には私の行動は感染リスクを考えるとあまり適切ではなかったかもしれないが、社会生活上は欠くべからざる行動だった、ということになろうかと思う。