Outside

Something is better than nothing.

洗濯機の行方

wash my ashes

 大学に入学するときに、私は叔父と一緒にニトリを回っていろいろなものを買っていったのだが、その後(前だったかも)ヨドバシカメラに行って生活に必要な白物家電を購入していった。そこで買ったのは当然、冷蔵庫、洗濯機、電子レンジ、炊飯器であったのだが(なぜだか蛍光灯の存在をすっかり忘れており、新しい我が家に入居したとき暗くて仕方がなく、慌てて買いに走ったのを何となく覚えている、そしてそれはふたたび転居したときにも同じことが起きた)、この中で早々に私の前から去っていったのは炊飯器で、これは一合炊きの美味しくない炊き上がり加減によるものだった。当然ここに触れられていない掃除機やテレビといったものはリサイクルショップに行って、前者は黄色い、紙パックの要らないサイクロン式掃除機で、これは吸引力がまったくなかったのでやがては掃除機を使わず他の掃除用品で部屋の掃除をするという本末転倒具合になっていったのだったが、今では新しい掃除機を購入しているので、それなりに満足もしている。テレビはなぜだか八インチという信じられないくらいに小さなブラウン管を買ってしまい、その小さな画面で私はテレビドラマを観たしゲームもやったのだった――思い返せばPS3で『スカイリム』をやったのは、あの小さな画面で、だった――が、画面の小ささはやがてコンテンツの魅力低下をも引き起こし、今では画面の大きなものを購入するに到った。冷蔵庫は妻が大きなものが欲しいというので買ったのだったが、意外や意外、機能最小限の、デジタルなタイマー機能すらない電子レンジが最後まで残ることとなった。

 洗濯機は、以前に住んでいたところでは外置きになっており、致し方なく外に置いていたのだが排水ホースがよく劣化して、洗濯機を回していると途轍もない水音が聞こえると思いきや、我が家の洗濯機から排水が漏れ出ており、階下の廊下が水浸しになっていた(外なので、室内が水浸しになることはどうにか避けられた)。それから私は例によってヨドバシカメラに排水ホースを買いに走り、劣化したホースを取り替えることで事なきを得たのだが、しかし事なきを得たのは一年ばかりのことで、やがてまた同じことが起きるにつれて私は雨の日をわざわざ選んで洗濯するようにすらなっていった。

 社会人になって社宅での一人暮らしが始まった。しばらくすると、階下の部屋から言い争いをする声が聞こえたことがあった。内容を聞くと、私がかつてやってしまったのと同じように、洗濯機からの水漏れであることが判明したのだったが、私はというと、そのときは防水トレイが部屋に備えつけられていたので、特に困った記憶はない。

 結婚のため引っ越してから、一度だけ階上の部屋の人が洗濯機の水漏れをやってしまい、帰宅すると蛍光灯の電源を伝って漏水したことがあった。あのときはよく漏電しなかったと思うのだが(どういう理屈かは分からないが、明らかに電源タップから水が滴っていた)、とにかく後始末が大変で、カーペットを初め、汚れて使い物にならなくなってしまったものが発生したため、やむなく金銭で解決するに到ったのだった。

 例の洗濯機は未だに健在で、しかしどこが原因なのか分からないのだが時折、激しくとは言わないにしてもちょろちょろと漏水が起きるようになり、設置したときから……と数えるとすでに十年選手、製造年数から考えると十三年目の大ベテランとなっていたため、このほど、巣ごもり中で余裕があったときに買い換えることにしたのだった。

 しかし買おうとしたときに困ったのは、昨今の状況により、実物を閲覧する機会がない、ということである。ビックカメラなどはポイントカードをマーカーとして、AR機能対応商品に限り、ARによって部屋に置いたときのイメージを掴むことができたりもするのだが、とはいっても対応機種は限られるし、マーカーがカメラの視界から消えると表示されなくなってしまったりと、実際のところあまり現実的ではない対応となった。仕方なく古来からのやり方に従って寸法をチェックして、現状のブツの位置を元に空想上の設置イメージを固め、あとは機能性と値段との相談というところで最終的に決めていった。

 世の中には洗濯機のプロ、というのはいるのだろうか、というのが選んでいる最中の疑問で、それは家電量販店、メーカーの人間ならばいざ知らず、要するにスマホのように「どの機種がいいのか」といったことを素人目にも判断できる「眼」が養われるものなのだろうか、という気がする。私の場合、十年ぶりに買い換えたわけなのだが、値段はスマホ並みのものだとしても、スマホほど買い換えの頻度は高くないため、あくまでエンドユーザー目線の使い心地のようなものは、主観的なものになりやすいような気がする。

『ワイルド・スピード/スーパーコンボ』(2019年)

ワイルド・スピード/スーパーコンボ (字幕版)

ワイルド・スピード/スーパーコンボ (字幕版)

  • 発売日: 2019/11/27
  • メディア: Prime Video
 

 デヴィッド・リーチの『ワイルド・スピード/スーパーコンボ』を観る。

 イギリスはロンドンで、MI6のエージェントであるヴァネッサ・カービー演じるハッティ・ショウは、「スノーフレーク」と呼ばれるウイルス兵器の回収任務を遂行中に、突如としてイドリス・エルバ演じるブリクストンという謎の男に襲撃され、仲間を殺される。咄嗟の判断で彼女は自分の体内にウイルスを打ち込み、その場から逃げることに成功するが、ブリクストンの手によって彼女が裏切り、仲間を殺されたことにされてしまう。CIAのエージェントであるライアン・レイノルズ演じるロックはこの世界の危機に対し、ドウェイン・ジョンソン演じるルーク・ホブスと、ジェイソン・ステイサム演じるデッカード・ショウに任務を依頼するが、二人は犬猿の仲なので反りが合わない。しかし、地下に潜ったハッティを探す中で、彼女はデッカードの妹であることが判明し、なおかつ何か因縁があることが仄めかされ、またブリクストンという男はかつてデッカードが射殺したはずの男であったことが明かされる。ブリクストンはエティオンという謎の組織に所属しており、機械とAIの力をまとったスーツを着用した結果、人間の身体能力を遙かに凌駕した存在として生まれ変わったのだった。そして「スノーフレーク」を悪用し、人類を破滅させることで浄化するという目的のため、ハッティの体内に打ち込まれたウイルスを抽出するために彼女を執拗に追跡することになる。しかし、ホブスとデッカードの側も、ハッティのウイルスを除去しなければならないため、敵の研究所に潜入し、ウイルス抽出装置を奪取しようとするが、研究所からの脱出時に機械が壊れてしまう。絶望する面々だったが、ホブスの故郷にいる兄ならば直すことができると、サモアに行き、久しぶりの対面(殴打される)を果たした後、最後の決戦が始まるのだった。

 基本的にこのシリーズは好きで、今のところすべての作品を観ているのだが、この作品はかなり大味な印象があり、所々、強烈に好きなシーン、シチュエーション、ガジェットは出てくるのだが、総合的に見たときには何だかなあ、と思わなくもない作品に仕上がっている。それは、当然本家の「ファミリー」というものの外側にいる人々(ホブス、ショウ)のストーリーだから、ということなのかもしれないし、この「ファミリー」の外側に、別のファミリー(ホブスの、ショウの)の話を展開されても、それはもはや「ワイルド・スピード」ではないだろう、という冷たい認識があるからなのか、とも思われる。

 それにしてもブリクストンの超人的な、というよりは超人によるアクションは相当に見所があるわけで、また最後のサモア決戦におけるヘリコプター連結からの、ニトロ噴射などは、正直なところ感動した。だからこそ、ということではないのだが、ここでは「ファミリー」の存在が逆説的に邪魔で、我々は画面を観ながら壮絶かつ最高度に面白いアクションを見せられながら、「一体何を観ているんだろう」という気にもさせられる。

「ファミリー」のヒストリーは、我々がよく知るように、ここで言うサモアの熱帯的なものだけ(あのいかにも「お母ちゃん」的なホブスの母親に象徴されるように)、というわけではなく、例えばポール・ウォーカー演じるブライアン・オコナーの(二重の意味での)「不在」というものが、本当の家族にある別れや悲しみのように通底していたはずであって、それは彼の「不在」以前にも誰かの不在、後悔、過去のしがらみといった形であったのではないか、と思わなくもない。それがこのシリーズのヒストリーを織りなす、ただ表面的なアクションの面白さだけではない、「ファミリー」というものだったように、私は思う。

 繰り返すが、私はこの映画自体を結構面白く観ることはできたのだが、他方で「何を観ているんだろう」と疑問に思ったのも事実なのである。

異常時といくつかの断片

fragment

 新型コロナウイルスに係る各種の対応で疲れ果てている中ではあるものの、私の仕事が緊急事態宣言を受けての自粛要請のあった業種ではないがゆえに、延々と働き続け、四月という平常時であっても異常なくらい忙しい時期であるにもかかわらず、異常時にあって異常なくらいに忙しい時期になってしまった、ということは記憶しておきたい。書店で何か気の利いた批評でもするかと本を繙こうと思えば、書店は閉まっているしそもそもAmazonですらKindle本以外は入荷未定になっていたりするので、仕方なくペスト (新潮文庫)……ではなく、ペスト (中公文庫)Kindle版を買ったりする始末であったのだが、それを読むような気力はペスト禍ではなくコロナ禍(しかしこれを「うず」とは読まないのだ、というような記事すら目にする始末で、それもコロナ禍以前にどうなのか、と思わなくもないのだが、つまりコロナの「渦」であったとしたら、それは遍く人々が巻き込まれるがゆえなのだ、とくらい言い返せるならば納得もしよう)の状況ではなく、数年前に買った金井美恵子猫、そのほかの動物 (金井美恵子エッセイ・コレクション[1964−2013] 2 (全4巻))を読んで、異常時にあって平常時のささやかな跳躍を垣間見せてくれるような猫の平穏さに心を馳せて緊張を解すのだったが、それにしてもコロナ禍の終息ないし収束は訪れる気配もなく、緊急事態宣言の延長可否についてもGW中になるかもしれないという待ち焦がれるというよりは今後の業務運営上の輻輳を見据えた恐怖感しか抱かないので、これはある意味で自粛を本来とする政府ないし自治体の思う壺なのではないかとも思うのだが、しかしそれは不可視のウイルスと未知の病に対するものというよりは既知の問題であったはずなのである。

 ところで、アフター・コロナだとか歴史の中にいるとか、あるいはその他の言説を目にしていると、未だ終わっていない事態に対する繊細さの欠如といったものを感じずにはいられないのだが、今この瞬間に何も解決されておらず、そしてこの瞬間において苦しむ人々がいる中で、「歴史」というものにまつわる七面倒臭さとその厳かな傲慢さについてやや苛立ちのようなものを、例えば仕事が遅くなってほとんど誰もいないに等しい地下鉄の一車両に乗り込みながら不衛生なスマートフォンの小さな画面を前に溜息をつくことになるのだが、そんなときでもささやかなひとときというものは訪れて、それは例えば星野源を聞きながら「恋」が流行ったときの新垣結衣は可愛かったなあと思いを馳せるときのことなのである。

 ただこの数多の言説の中でも、やはり読んでおいてなるほどと思う記事はいくつかあり、例えばそれは「『平常に戻る』ことはない」と題されたイギリスNESTAのレポートを翻訳したものであって、これは確かに今後の某かを考える際に非常に興味深いものであった。

 ここで述べられた事柄の真偽など誰にも判定しようがないので、あくまでそれを読み、各々の知見によって解釈していくしかないのだが、このコロナ「渦」によって我々の社会分化的文化的政治的法的技術的環境的な「世界」というものはぐるぐると巻き込まれ完全に変わってしまうがゆえにコロナ禍なのだ、ということを考える。

 私はこのコロナ禍について楽観的というよりは悲観的ではあるものの、それは地政学的なものであって、巨視的な視点に立てば多少なりともは楽観的に考えているのは事実で、しかしそれは歴史という現在起こっている出来事を過ぎ去ってしまったものと錯覚するような耄碌とはまったく異なるものであるとは言い添えておきたい。

 個々人の「自由」に対する束縛が、自粛という形で、例えばこの「粛」は当然に粛正や粛清に繋がるようなどことなく白い暴力的なイメージにも繋がる言葉によってもたらされ、それが常態化しかねない現在時というものが、果たして公衆衛生的な観点のみから見たときに合理性はあったとしても倫理的なのか、ということについては、たまたま本日読んだ歌舞伎町のホストたちに対するホストクラブへの「経営姿勢」という記事でも感じられた。

 一方で、他方で、という見方が存在することは重々承知であり、その上でこの舵取りについてはもはや政治的な判断(例えば医者や医療系、感染症系研究者等がすでにメディアで「政治的」「経済的」な発言を行うことがあまり不思議ではなくなっているが、本質的には責任を持たない/持てない分野であったはずである)が前提であり、前掲の「『平常に戻る』ことはない」に戻れば、「オヴァートンの窓」(人々が政治的な思想等を許容できる範囲)はとてつもなく広くなる。

 今のところ、というよりはいつのときも我々はヴォルテールに習えば、「自分の畑を耕すしかない」(カンディード (光文社古典新訳文庫))のであって、ともすれば見失いがちの「自分の畑」を耕すために、来たるべき時に備えて鍬を磨いておくしかないのかもしれない。