Outside

Something is better than nothing.

『アラジン』(2019年)

アラジン (オリジナル・サウンドトラック / 日本語版)

アラジン (オリジナル・サウンドトラック / 日本語版)

  • アーティスト: ヴァリアス・アーティスト
  • 出版社/メーカー: Walt Disney Records
  • 発売日: 2019/06/05
  • メディア: MP3 ダウンロード
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 ガイ・リッチーの『アラジン』を観る。

 ウィル・スミス演じる何者か(後に明かされるがジーニー)は、船の上で子供たちふたりに何か話をせがまれる。そこから彼がかつてどういう道筋で妻(母親)と出会い、今があるのかを語り始める。メナ・マスード演じるアラジンは、貧しくも正しい心を持ち、日々を懸命に生きている。一方、ナオミ・スコット演じるアグラバーの王女ジャスミンは、王女として王子と結婚せねばならず、ナヴィド・ネガーバン演じるサルタンの跡を女性というだけで継ぐことができないことをもどかしく思い、また民のことを知るために街に降り立つ。マーワン・ケンザリ演じるジャファーはランプの魔人を呼び出すために暗躍する。ジャスミンが市場で飢えた子供のためにパンを(お金を持っていないのに)与えてしまったことがきっかけで、アラジンと知り合い、ふたりはそれぞれ持っていないものに惹かれ、恋をする。だが、ふたりの身分の差が彼らの恋を邪魔する。アラジンは相棒のアブーとともにジャスミンの住む城に忍び込むが、そこでジャファーに捕まり、魔法の洞窟でランプを取ってくるように言われる。ランプさえ取ってくれば、金持ちになれる、と言われて。魔法の洞窟の中でアラジンは岩に挟まって動けない魔法のじゅうたんを助け出し、またランプを手に入れるものの、アブーが触ってはならないと言われた洞窟の宝に手を出したことがきっかけに洞窟が崩壊し、魔法のじゅうたんに乗ってあと一歩のところまで行き着くが、ジャファーがランプだけを取ってアラジンを蹴落としてしまう。しかしアブーがランプを盗み出していた。アラジンは魔法のじゅうたんに促されるままにランプをこすると、ランプの魔人ジーニーが現れる。ジーニーは三つだけ願いを叶えると言う。アラジンはランプをこすらないで洞窟から出すように言って外に出て、ランプの力を目の当たりにする。しかし明確な願いが思い浮かばないアラジンはジーニーに、自分だったらどんな願いがあるかと問いかけると、ジーニーは人間になって自由になりたいと言う。その願いは三つ目として叶えるとアラジンは約束して、アラジンはジャスミンとの恋を成就させるため、身分の差を埋めるための願いを言う。架空の国の王子となってアグラバーに戻ったアラジンは(失敗を重ねながら)歓待を受け、ジャスミンとの仲を(ジーニーはその侍女との仲を)深めていく。ジャスミンを連れ出して、今まで彼女が見たことがなかった世界の広さを魔法のじゅうたんに乗って一緒に見たことで、ふたりは恋に落ちていく。だがジャファーの野望は収まらない。ジャファーはアラジンの素性を見破り、彼を海に落としてしまう。そこでジーニーはルールを破ってでも「願いを叶える」(彼の命を助ける)。ジャファーの野望を看破し、ジャファーは失脚する。しかし王子としての立場を偽り続けたアラジンは、次第にジーニーの願いを叶えることを躊躇うようになっていく。悩んでいる間に、アラジンはジャファーにランプを奪われ、ジャファーは国王、魔術師と二つの強大な願いを叶えていく。ジャスミンは決死の思いで、ジャファーに立ち向かっていくが、あまりに強大な力を前に負けてしまう。アラジンは迷いを払拭し、ジャファーに立ち向かい、最後にはジャファーを挑発し、彼をジーニーとさせることでランプに閉じ込める。そして、アラジンはジーニーの願いを叶え、物語は大団円を迎えるのであった。

 傑作、であったというのは、いろんな意味があるのだろうと思うのだけれども、この場合は多分に1992年のアニメ版の思い出補正というものがあった上で、のことなのかもしれない。それにしたってクレジットを見るまでに監督がガイ・リッチーだとは思わなかった。いや、でも、と考えて、もうこんなことはどうでもよく、私にとって人生におけるベスト10に入れてもいいのかもしれない、というくらいによかった、と思う。

 まずガイ・リッチーの映画であるということを考えないまでも、どことなくイギリスっぽいキャストが多いように見受けられ、単純なアニメ版の『アラジン』実写化というよりは、それなりに色がついているように感じられる。

 それはもちろん新たに挿入されることになったジャスミンの、フェミニズム的な歌なのかもしれないのだが、個人的には(メッセージの正当性はともかく)やや冗長になってはいなかったかと思わなくもない。

 いちばん驚いたのは、もちろんウィル・スミスのジーニーで、最初、いかなる実写化だとしても、この配役の人は苦労するだろうなと思っていたのだが、そんなことはない、私があまり観ていない中で知っているウィル・スミスの中で、ベストアクトを上げたいくらいに素晴らしい演技だったと思う。テクノロジーの発展によってCG等を駆使してあの「フレンド・ライク・ミー」が成立しているのだとは思うのだけれども、ウィル・スミスのキャラクターが土台としてばっちりと固まっているがゆえだろう。

 そんなこんなで、「アラビアン・ナイト」が流れ始めた辺りからじんじんとと来て、「フレンド・ライク・ミー」でさらに感激し、最後の、アラジンとジーニーの友情を見せつけられるにつけて涙が流れ落ちていき、今これを書いているときでさえ、ちょっとうるっと来ている。

『ザ・ベビーシッター』(2017年)

 マックGの『ザ・ベビーシッター』を観る。Netflix映画。

 ジュダ・ルイス演じるコール・ジョンソンはその慎重な性格が災いしてなのか、年齢の割には落ち着いているのか、それはともかくとして同級生たちに馬鹿にされ、虐められていた。サマラ・ウィーヴィング演じるビーは、コールのベビーシッターとして、倦怠期を迎えて疎遠になりがちなコールの両親が、関係の修復のために「ホテルセラピー」を行なっている間、面倒を見ることになっていた。ビーは年上の、いわば「ホット」な女性の魅力と、SFを始めとしたサブカルチャーの知識が豊富なことによる、少年的な感性によって、コールと気が合っていた。エミリー・アリン・リンド演じるコールの同級生の女の子であるメラニーは、コールに眠った後にビーが何をしているか確認するといいと告げる。そしてその夜、たしかにビーはコールが眠った後、見知らぬ男女を呼び込んでいた。当初はゲームに興じているだけだったが、突然ビーがゲームの中で男性をダガーで刺したことをきっかけに事態が急変する。ビーは謎めいた古書、魔術書を元に、血の儀式を行おうとしていたのだった。その矛先はコールにも向けられていた。彼は当然ながら警察に通報するも、仲間たちによっていとも簡単に壊滅させられてしまう。必死に逃げようとするものの、一度は彼らに捕まるが、彼は機転を利かせて彼らをどんどん撃退していく。ソーニャともいい感じになり、最後にはビーを撃退する(のだったが、実はビーは生きていた模様)。

 あまり肩肘張ることなく観ることのできる映画で、コンパクトにまとまっていて個人的にはかなりいいと思った。子供の頃に楽しんだ『ホームアローン』とか、そういう案配の映画であると思う。

 例えばラーメンズのコントの中で、「条例」というのがあって、その中で小学生男子に聞いた「お前の妄想とは何ですか?」ランキングがあり、そこに堂々一位で挙げられていたのが「エロい姉の存在」というものだった。つまるところ、ここでのコールも、まあ似たようなもので、ビーのキャラクターは実に小学生の男子的な欲望と、男性的な欲望とのマッチングの結果としてある。

 だから何というわけではないが、この欲望にだらしないキャラクター設定が、悪魔崇拝のカルトという、さらに一捻りされたキャラクターによって見事に裏切られ、てんやわんやの大騒動に至るのを見るにつれて、この映画は実に「健康」的だ、と思う。それは中盤の、いじめっ子に立ち向かえ的なメッセージ性からも明らかであろう。

 かくして映画は、ビーを離れてソーニャを選び、非常にまとまった一定の様式美すら見せられたような、そんな気にさえさせられる。個人的にはとてもいい作品だと思う。

『ザ・テキサス・レンジャーズ』(2019年)

 ジョン・リー・ハンコックの『ザ・テキサス・レンジャーズ』を観る。Netflix映画。

 刑務場から囚人たちが脱獄する。近くに一台のフォードが停められているが、そこには男女のカップルが乗っている。女がマシンガンを刑務官らに向かって乱射し、囚人たちは車に乗り込んで逃げ果せる。1934年のテキサスで、ボニーとクライドという犯罪者が世間を賑わせていた。連邦捜査官はまだ機能しておらず、州境を越えれば、もはや警察は誰も追いかけてこない。キャシー・ベイツ演じるテキサス州知事のファガーソンは事態を収束させようとするが、ジョン・キャロル・リンチ演じる刑務所長リー・シモンズは、ある男たちを推薦する。ケビン・コスナー演じるフランク・ハマーはかつてテキサス・レンジャーとして勇名を馳せたが、今では妻とひっそり暮らしていた。そこにリーがやってくる。ボニーとクライドに対処してくれ、と。初めは断るフランクだったが、彼らによって千発もの弾丸を撃ち込まれて死んだ警察官のニュースを聞き及んだとき、彼の心に火がついた。彼は準備を整え、かつての相棒であるウディ・ハレルソン演じるメイニー・ガルトの元に訪れる。メイニーは困窮しており、今ではすっかり落ちぶれてしまっていた。フランクは最初、その場を立ち去るが、立ち寄った町で、メイニーが前に現れる。彼の勘はまだ完全に衰えていなかった。かくして彼らはテキサス・レンジャー、もとい、それを名乗れないためにハイウェイマンとしてボニーとクライドを追いかける。警察もFBIも、完全に彼らの足取りを終えていない中、二人は地道に捜査を続けて彼らを追っていく。しかし追跡も虚しく、彼らは犯行を重ね、また一度はカーチェイスになったが、砂埃で巻かれてしまう。だが、彼らの仲間の父親と接見した二人は、彼らを罠に嵌めて、追い詰めるのだった。

 いわゆるボニーとクライド物になるのだろうが、なんだか久しぶりにケビン・コスナーを観たような気がして、題材というよりは彼を観たような気がしていた。基本的に誠実な映画で、クオリティーは充分に高いのだが、ハードボイルドによりすぎたためなのか、ややダレる瞬間がある。とはいえ、これは本質的なものではない。

 これは執念の映画であり、その執念というのは地味なものなのだ。だから老獪に彼らを追い詰めていく様は、地味であるし、地道でもある。そしてフォードの速さに追いつけず、土煙に巻かれたりもする。彼らが歓声をもって迎えられるとしたら、彼らはただただ静かに追いかけるしかない。

 最後、彼らを殺すシーンの迫力はひとしおで、ここまでの地道さの果てにここに行き着き、最後には実際の写真まで挿入されるというのは、監督の自信なのだろうと思う。いい映画を観た。