Outside

Something is better than nothing.

『湿地』(2006年)

湿地(字幕版)

湿地(字幕版)

 

  バルタザール・コルマウクルの『湿地』を観る。

 ある独身男性が殺される。刑事は単純な殺人事件だと思っていたが、背後には遺伝性の脳腫瘍という病気があり、その男性は因子を持っていた。過去に(そして今も)起こした男のレイプによって、その因子は子孫に受け継がれていく。過去の被害者をあたっていったりすると、脳のない遺体を見つける。その背後関係等を洗っていくと、最終的に被疑者に辿り着くのだが、彼は自分がレイプ犯の息子であること、そのレイプ犯(被害者)は病気の因子を持っていたこと、その因子のために被疑者の娘が亡くなったことが分かる。

 刑事パートと犯人パートで分かれていて、後者は青みがかった色合いになる。それぞれにやりきれない事情や厳しい家庭環境を抱えていて、なかなか見応えがあるのだった。

12月の振り返り(Stairway 12)

Information Literacy

 情報の取得とその整理について、何か明瞭な方針や確定的な方法論があるというわけではなく、最終的に自分自身のライフスタイルに合致したものを見つけていくしかないのだ、ということになるのだが、それを今年はさらにアウトプットしていくのだ、というところで、この階段は続いてきた。

 まず今月の記事の中で気にかかったものと言えば、フランスにおけるイエローベスト問題だろう。マクロンによる燃料税の引き上げに抗議する形で、反政府デモと治安部隊が激しく対立した。

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 最終的にマクロンが譲歩し、政府支出拡大による生活支援策を発表したことで、デモは収束していったのだが、政策推進力の低下や環境への負荷増大等の諸問題は残る――と言われている。大衆迎合主義としてのポピュリズム化がフランスにおいて言われるのだが、はたしてそうなのだろうかという思いも私自身はある。ブレイディみかこポピュリズムとポピュラリズムの違いについて解説したときに、後者を「大衆迎合主義」に近いものとして、前者を辞書的な意味として庶民の願望を代表する政治として述べてきた(ポピュリズムとポピュラリズム:トランプとスペインのポデモスは似ているのか(ブレイディみかこ) - 個人 - Yahoo!ニュース)。ピケティが述べるように、富裕層への課税をなおざりにしたまま、庶民への負担増を強いる政策について、説得力を持つはずがない(ピケティ解説「黄色いベスト」:ルモンド紙2018年12月8日朝刊 : おしゃべりな毎日)。

 引き続き、米中の対立は激化しているのだが、HUAWEIに対する圧力が全世界的に厳しくなった月だった。カナダで副会長が逮捕されたことに起因してか、本邦でも排除の傾向が続き、産経新聞の報道の後、HUAWEI産経新聞との間に訴訟が提起される等の動きが進んだ。また、HUAWEIは国内の主要紙に意見広告を掲載する等の動きを行なったものの、既存設備や新規調達からの排除の動き自体は加速している。

www.nikkei.com

 世間的にどの程度認知が進んだかは分からないものの、クーリエ・ジャポンにおける伊藤詩織責任編集「性暴力はなぜ起こる」における寄稿「拝啓 伊藤詩織様」には、心を動かす痛烈さがあった。セカンドレイプの凄まじさというのは(本質的にあってはならないことは重々承知の上で)世の常といったところで、この手紙の差出人にその後起こったことや伊藤本人に起こったことや現在起きていること(とある弁護士の気色悪いブログ記事等)という各種の「加害者たち」の反応は、常に被害者たちの今を、過去を、未来を汚し続ける。なぜ「加害者たち」は余計なことを言わずにはいられないのだろう、どうしてマウントを取りたがるのだろう、と思わずにはいられない。

courrier.jp

 あまり特筆すべきではなかったかもしれないものの、なんとなく心に残った記事として「『軍事政権だって、いいじゃない』という学生たち」があった。学生という存在については、個人的な意見としては所属大学によって、当人のポテンシャルや正確性の担保が定まるわけではなく、むしろ発展途上のそれらについて、常に一定の疑義を挟むべきだと思うのだが、もちろんこの記事に登場する強いリーダーシップを――彼らもまた発展途上であるがゆえに――求める希求心を考えなければならないだろう。もちろん学徒動員があった国において、その後の悲惨さについて彼らは学ぶべき途上であろうし、もちろん現代の独裁の形式についてもまだ発展途上的に学んでいる最中である彼らにとり、そういったややこしくて漸進的な知識よりも、明瞭な答えを提示する軍事政権的な決断力を欲したいのだろう、ということについて。

globe.asahi.com

 バーコード決済については、ファミリーマートの参入発表等もあり、さらに混迷を極めている気もするのだが、何はともあれ今月においてはソフトバンク/ヤフー系列におけるPayPayのキャンペーンが衝撃的だっただろう。20%の還元率は前代未聞だったが、その合計金額が100億円で、キャンペーン自体が10日間ほどで終わったこともまた衝撃的だった。その後のセキュリティ上の問題については杜撰の一言に尽きるが、それでもこのバーコード決済の認知については今月で認知および使用は高まったはずである。

japan.cnet.com

 火器管制レーダー照射やTPP、株安について触れるべきなのだろうが、現状において解決の目処や各種論評が出揃っていない感があるため、最後に平成という「時間」について触れて終わりたい。

 一国の君主が退位するということについて、少なくとも私は昭和の終わりに生を受けた人間として、生まれてからこれまで二度目の経験になろうかと思うのだけれども、もちろん昭和という時間については生を受けた途端の出来事だったため記憶にない。物心がつく前の出来事だったのだ。だから、今回が初めての経験なのだということだし、譲位するということは200年ぶりになるそうなのだから、現代に生きる本邦の人間にとり初めての経験になるということなのだけれども、この平成という時間において、この君主として、あるいは象徴として存立していた天皇の「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています」という所感については、聞いていてこちらもかなりホッとしたのを覚えている。災害に見舞われることの多かった時代だったが、たしかにこの期間、本邦の国土において戦争が起きたことはなかった。時間を支配するがゆえに元号があるのだ、と何かの折に教わったことがあるのだが、時の支配者たる天皇の、次なる元号の発表については未だに錯綜し、方針が定らないのは残念に思う。

www.asahi.com

 来年はもう少し整理した形でこういう時評的なことを続けていきたい。

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joek.hateblo.jp

愛に適した日々

Macro

 総括すべき物事があるのかと言えば、日々、由無し事によって濁流に飲み込まれるように自分自身の存立を脅かされ、まさに「私」というものがだんだんと他者の領域にまで追いやられている気がするのだし、例えば山崎ナオコーラが「慧眼」(男と点と線 (新潮文庫)所収)の中で記しているように「会社に身を沈めていると、大義として『責任』を持ち、思考を停止させながら、日々を送ってしまう。責任、という考え方は、『この世に必要な私』を信じる自分の幻想によるものかもしれない」(P.28)ので、社会人生活を送る中で、日々忙しい忙しいと言い募り、さて、この「忙しさ」の由来は一体どこにあるのか、決して問われることのない自明の理として覆い被さってくる「仕事」によって、「私」というものの本来持っていた性質はだんだんと消え去っていき、前述のように「この世に必要な私」へと変質していくしかないのだろう。そしてやがては「『命令されたのだから仕方がない』。たったこれだけの言葉で、人は自分の心を守れるのだ」(上田早夕里『破滅の王双葉社Kindle版位置:3342)と思い込み、人間として本来あるべき姿から遠のいていくより他はないのかもしれない。

 そういった予感があったからなのだろうか、いやもっと冗談めいた意味を込めて、私は今年は「Love」を重視した年にしようと考えていたはずだった。それはパートナーへの愛や仕事そのものへの愛、「私」自身に対する愛、他者に対する愛……。多くの愛が、由無し事の濁流に飲み込まれる私の、道しるべになるはずだった。

 多くの場合、それは機能していた。私は多くのコミュニケーションと、それを上回る他人からの配慮によって生かされた。仕事は硬質さをもって私に迫り、論理性と非論理的な(そして属人的な)問題を残して私を悩ませた。そのたびに私は隣人を誘って酒を飲みに行った。多くのビールが消費された結果として、今がある――そう、もちろん、そうだったのだ、私は酒も愛すると決めたのだった。

 私は友人が欲しかった。仕事を通じた非人間的な付き合いではなくて、仕事を通じようが通じまいが、人間的な付き合いを欲していた。そして今年はそれが成し遂げられたように思う。一瞬でもそう思える瞬間があったということは(そしてそれが今も持続していることは)幸せなことだと思う。

 一時期、不本意な異動によって、私はどん底にいた。けれども、上述のように多くの人に助けられ、また自分でも自分自身の環境を変えようと努めた。それは私自身の変質による適応ではなく、私自身の存在をそのままに、不本意な変容なしの居場所を作ることができた。

 パートナーとの関係も相当に改善された。いや、改善という言葉はあまり適切ではないかもしれない。だが、そういった意味を通り越して、パートナーとの愛はこれまでにないくらいに深まった年になった。また、私は書くことが好きだった。これもまた私はもう一度、真正面から愛することにした。

 仲の良い人と年末に今年を振り返ったとき、互いに「なんだかんだで今年は良い年だった」と言い合えた。個人的な総括としては、そういうことになる。

 さて、そういったことを踏まえての来年になるのだが、「fit」ということをテーマに活動していきたいと考えている。これはフィットネスの一部でもあるし、何か自分自身にフィットしたものを行なっていきたい。