Outside

Something is better than nothing.

編集の効果

Film Editing

 フィンチャーの『ファイト・クラブ』の中で、ブラッド・ピット演じるタイラー・ダーデンは完成されたフィルムの一コマ、意図されざる一瞬の中に、男性器を挿入することで資本主義社会における反抗を試みるわけなのだが、単純化して言えば、これはあらかじめ存在する物事に対する「編集」ということができるのかもしれない。

 私は長らく編集と無縁に生きてきたような気がするし、ある意味で最初期から編集と向き合ってきたのかもしれないのだが、私は常にあくまで作り手なのだという気概はあった――たとえそれが無意味なものだとしても。

 ボルヘスは基礎的な批評として、図書館の配架について触れていた覚えがあるが、あるものを別の場所に配置した結果として生じる効果を編集(多様な編集の定義の一つとして)と呼びうるならば、私にも覚えがある。批評は同時に編集であり、その分類行為が結果として順序を生じさせ、あるものを別のものよりも前に、あるいは後ろに配置することを決めるとき、そこには編集の効果が生じることとなる。

 少し前にエッセイをまとめたものをアーカイブするために編集を施した。その際、私は自分のエッセイを4つの分類により、整理していった。その4つは恣意的な分類ではあるものの、概括したときにまとまっているように感じられたのだ。

 結果として、非常に整理されたアーカイブを作ることができた。作った当初としては満点を上げたいような、そんな出来映えである。これである時期における、特定の分類に基づいた自分のエッセイを概観し、あるいは読み直すことができる、と。

 ところで、最近、私は疲労のあまり自分の書いたものばかり読み返していた。小説は元より、エッセイも、である。そうして、この戦略的な分類に基づいたエッセイ集を読み返す段に至り、思いのほか編集の効果が関係していることに気づいたのだった。

 時系列順になっていないそのエッセイ集は、結果として読み返すと微妙にリズムが狂っているのだった。個々のエッセイの中でリズムは狂ってはいない。小説集だとそんなことはなかったのだけれども、生活に基づいたエッセイをまとめたものを読み返したとき、そこに時間の営為がすっぽりと抜け落ちてしまっていた――それは時事的なものを扱ったものでさえも、そうなのである。

 これは結果として編集に失敗したのだ、と私は数年越しに思った。当時は戦略的に有効性を認めていたその編集の効果が、時を経ることによって無効化され、また同時に本来持つべきであったリズムを喪失するに至っている。

9月の振り返り(Stairway 9)

Shrimp

 きわめて個人的なことであるが、先般、記したとおり9月という月には何か呪われたものがあるとしか思えない、そういった気分の落ち込みがあるので、この月において酒量は増え、特に理由もなくペソアを読み返しては、世界というのは無神経な連中のものなのだという負け犬の遠吠えのようなことを思うのだけれども、しかし同時にそれが負け犬の遠吠えであるとは思わないところがどうしようもないところである。

 北海道で大きな地震があり、改めて天災の凄まじさを思い知ることになるのだが、同時にこれは古来より続いてきた。だからといって矮小化する意図はないにせよ、しかしこの地震の多さについて今後を考える上で不安を覚えないわけにはいかない。

 けれども、時は21世紀になったところで、LGBTQ等の多様なパーソナリティを担う存在がクロースアップされつつも、圧倒的マジョリティである男女の境すらまともに扱えない。

digital.asahi.com

 記事中のピリオド・ポバティー、生理貧困にのみクロースアップするのならば、我が国にも同様の事態はすでに起こっているらしく、改めて貧困に伴う具体的な支障――もちろん、貧困というのはいつだって具体的なものでしかないわけなのだが――があげられている。

www.shinchosha.co.jp

 状況は刻一刻と悪くなっており、よくなる兆候は特に見出すことができないにせよ、人生は続いてしまう以上、我々は何らかの向日性を見つけていくしかないのかもしれない。しかし、出版を担っていた会社が差別性を許容することによって、一体何が起こったのかと言えば、たぶん最後の装飾のようなものの剥がれ落ちる瞬間であり、もちろんさまざまな方面から元々腐っていたという指摘はあるかもしれないけれども、文化というものにおける何か重要な建前を失ってしまった。

 剥き出しの暴力性のようなものが、おそらく今後、何ら躊躇もなく世の中を覆って行ってしまうのだろうが、それを思い留まらせる虚構の力が、かくも脆く崩れていく様を見るにつれて、暗澹たる気分を更新することとなった。

時は青銅となって最後の時代に入る。

 と、私はパウル・ツェランの習作期における「アルテミスの矢」(『パウル・ツェラン詩集』飯吉光夫訳、小沢書店、1993年、P.11-12、以下同)が好きで、小説のエピグラフにも使ったのだけれども、解説による「時代はおそらく黄金の時代から、〈銀〉の時代をへて、〈青銅〉の時代へと逆行している。戦争による大厄災をもたらした現代が野蛮な〈青銅〉の時代として最後にあるが、この三つの時代はまた、太陽、月、闇の時刻と照応している。」ということらしい。

 どうでもいいことだけれども、ふと思い出したので最後に引用しておこう。

 堀口大學『月下の一群』(岩波文庫、P.47)のアポリネールの章に「海老」という詩があって、これはこのような詩になる。

 不安よ、おお、私のよろこび
 お前と私とは一緒にゆく
 海老が歩くやうに
 後へ後へと。

 私たちはいつだって後退し続けているのかもしれない。

 

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九月病のリズム

The Golden Curtain

 秋口になると不思議なもので、私は「九月病」と勝手に呼んでいる気分の落ち込みに見舞われる。これは1週間とかそこらで終わるようなものではなく、ほとんど1ヶ月近く続くもので、その期間中には普段は酒が好きなのにめっきり飲まなくなったり、仲良かった人と話すのがひどく億劫になったり(まだそれはマシな方で、場合によっては関係を遮断する)、まあ、とにかく気分が変転する時期なのである。

 これを明瞭に理解したのは2年前のことで、そのときになって初めて自分の1年を通してのリズムに気づいた。人間の持つ体調や心理の変化というものは、1日、1週間、1ヶ月、1年……とさまざまな周期があるものだが、私はそのときになって初めて自分の1年というスパンにおける心理的な周期に気づいた、ということになる。

 今年に関しては九月病の落ち込みはかなり軽減されたものの、しかしながら台風の発生による頭痛が辛いことは辛く、ほとんど毎日、頭痛薬を飲んでいた。それで緩和されるならまだしも、飲まないよりは、という程度の効果しか出ないため、結果的にはイライラとすることが多い。

 例年と比べると頭痛の発生が多く、イライラが募った挙げ句に酒量が増え、飲むだけならまだしも二日酔いの頭痛も重なって、無駄に辛さを抱えることとなった。こういうことはよくないと理性が訴えかけていても、どうしても飲みたくなってしまう。

 よく飲みに行く人は「喉が渇いた」と言い募ることが多いのだが、渇きの耐えがたさは空腹よりもひとしおで、恥知らずの渇きを裡に抱えては、夜ごとに街に繰り出して酒を求める毎日なのであった。しかし、なんといっても間違いなくそれは「渇き」なのである。

 福田恆存は『人間・この劇的なるもの (新潮文庫)』の中で、ロレンスが年月の運行とそれに基づく教会の各種行事について「日々の太陽に息づくリズムなのだ」と述べていることに触れ、「私たちが型に頼らなければ生の充実をはかりえぬのは、すでに私たち以前に、自然が型によって動いていたからにほかなら」ない、と述べている(P.152-153)。

 九月病もまた、このリズムによるものであることは明白であると同時に、おそらくは渇きについてもまた何らかの型ではあるのだろう。そこには例えばビジネスパーソンは「日々の仕事の愚痴を言うために飲みに行くことでストレスが解消される」という型があるはずで、それをことさら否定しようとは思わないけれども、この渇きはこの型から生じるリズムであろう。

 殊に思いを馳せるのは人間の身体に流れる時間について、である。身体のマトリクスに、おそらく時間があり、それは四次元的に存在する一つの線なのだ、と思うようになった。それは外部要因なのではなく、内部にそもそもとして存在していたものなのだ、というような。

 そしてすでに答えは出ていたのだ、とも思う。リズムによって身体が支配されてしまうのであれば、そこには最初から時間が含まれていなければならなかったはずで、時間は、我々の身体の中に当然のように存在し、同時にまた「通り過ぎて」いく。

 

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