Outside

Something is better than nothing.

6月の振り返り(Stairway 6)

sunrise

 ほとんど非活動的かつ非生産的な日々を送るような気がしてならない。それはうだるような暑さの訪れを前にして、もう何もやりたいことなどないし、そもそもやりたいようなことなど人間の本質としてないのではないか、ということを思ったり思わなかったりするのだが、そんな短絡に陥るのは知力の不調というより他はない。

 サッカーのワールドカップが開催され、西野監督の下で日本代表は当初の予想よりも遙かに善戦することとなったのだが、その中で我々はほとんど無意識的に自分たちを日本代表を応援する者として捉えており、それを疑うことはなかったように思われる。別段それは不思議なことではなく、サッカーという競技とワールドカップの持つ特性なのだと言えばそれまでなのだが、けれども私たちはその少し前にあるアーティストがシングル曲のカップリングに収録した楽曲を巡って、いわゆる愛国心とその発露について、議論が沸き起こったはずだった。

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 RADWIMPSの楽曲「HINOMARU」における、戦前風の表現について賛否両論となったはずで、私は彼らの楽曲のうち、とりわけ「DADA」が好きだったのだが、それなりにげんなりした。

 エモーショナルに訴えかける何かを、多くの人々の前でパフォーマンスするとき、恐るべき感性に至りかねない。おそらく個々の人々には大した(こう言ってよければ)悪はないのだろうが、その集積が最終的には悪へと変貌することはよくあることだろう。全体主義といったとき、この全体という言葉の包括する意味に引っ張られているような気もするのだが、サッカーだろうが音楽だろうが、個々の人々の反応それ自体に害はなくとも、それがある指向性を持ったときに、悪となりかねないと私は思う。そしてそれらはエモーショナルなものであるがゆえに、委ねているその瞬間における快楽は鋭く心地よい。この騒動の後に、彼らはライブ会場でそれまでの謝罪とはまったく異なる主張を発したらしいのだが、その瞬間における快楽の絶頂は凄まじいものであっただろう。私はそれを否定するつもりはないが、かといって肯定するわけでもないのだった。

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 新幹線での殺傷事件やブロガーの殺人事件など、物騒な事件が続く中、運用について考えるべきものとしては上述のマイニング技術に係る警察の対応についてだった。高木浩光の記事「高木浩光@自宅の日記 - 懸念されていた濫用がついに始まった刑法19章の2「不正指令電磁的記録に関する罪」」に詳しいが、読めば読むほど疑問が湧く運用を警察はしているように見受けられる。

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 何はともあれ、いわゆる働き方改革関連の法案成立も行われてしまったことであるし、米中の貿易戦争は過熱しそうであるし、私も私で環境が変わりまた忙しくなってしまうしで、何もいいことはないのだった。

 

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身体のメンテナンス

Maintenance

 先月は延々と対象不良に悩まされた挙げ句に仕事上のトラブルが相次ぎ、業務運行について現行スキームを見直す必要が生じたところで、しかし体調が悪い、何もしたくない、誰とも飲みに行きたくないという状態に陥った。その陥穽はあるいはバイオリズムとでも言うべき唾棄すべきものなのかもしれないのだが、それでも体はだるく、梅雨の季節の訪れとともに高まっていく部屋の湿度のような、そんな湿ったというよりもべっとりした不快感を思わせた。

 私はとにかく砂のようにさらさらと、ぱらぱらと散っていきたかった。以前に尊敬する上司に今後の仕事についての展望を伺ったときに、その方は「砂になりたい」と言っていたのを思い出す。その上司は砂のようになって、最終的によく分からないところに行ってしまい、そこで骨を埋める覚悟をしたと言っていたような気もするのだが、幸せとは砂の形をしているのかもしれない――しかし、砂の形とは一体。

 かくして私は先月、猛烈な首の痛さに2週間あまり襲われ、首の痛みを解消するために書店で見つけた枕を購入したのだが(しかし、書店とは一体……)、そのお陰なのか単にバイオリズムという唾棄すべき事実のためなのか、とにかく首の痛みはややマシになり、人間の身体のメンテナンスのことを思うのだった。 

天使の深睡眠マクラBOOK (バラエティ)

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 私は以前より持病があり、毎月のように病院に通っているのだが、それ以外にもアトピー性皮膚炎であるために定期的に皮膚科に通う必要がある。皮膚科に通わなければ次第に全身が痒くなり、やがては傷だらけの状態に陥ってしまう。ステロイドとはかくも偉大な薬なのだという思いを強くする昨今ではあるが、以前まで私は皮膚科だろうが腎臓内科だろうが、とにかく病院というものへ行くのが面倒で仕方なく、それは病を治すという場所だと病院を認識していたからなのだった。

 今のところ私の腎炎もアトピーも治らないようだから、どうして行く必要があるのだろうと思っていて、前者の治療を精神の調子が悪くなったときを境にして一年近くほっぽり出したこともあった。医者に怒られていろいろと説明を受け、また自分でも考えを改める中で、病院という場所は、身体を治すところではない、ということに気づいた。メンテナンスをするところなんだ、と。

 若い頃はとにかく寝れば治る的な具合の、RPGで言えば宿屋最強みたいな認識でいたのが間違いで、歳を取れば取るほど少しずつ回復力は落ち、状況の放置による自然治癒の機会はますます失われていくばかりである。

 機械もまた同様だ。多くの機械は定期的に何らかのメンテナンスを施さないことにはそのパフォーマンスを発揮できず、動いたとしても役に立たない、ベスト・エフォート値から著しい落差があるなど、落胆することこの上なしである。

 つまるところ人間の身体など機械と手入れの面では大差なく、男女問わず肌爪髪の手入れは日常的に行っている。病院も、電源のオンオフがないために24時間何らかの部分で働き続けている身体に対して、数十年も生きていれば故障の一つや二つ生じないはずがないのだという運命を前にしたメンテナンスに他ならない――と気づいたときに、病院に対する面倒臭さが多少は緩和された。

 医は仁術などではなかったのだ――ある意味において。この医療というメンテナンスを抜きにして人間は数十年も生きることができない以上、病院に通わないという選択肢はないのだ、ということに私はようやく気づいたのだった。

5月の振り返り(Stairway 5)

Sunlight

 個人的なことから始めるが、5月は仕事が忙しく、体調も悪いという月だった。さらに運気も悪いといった案配で、五月病というのはこういうものなのかと思いつつも、5月期のニュースを振り返ってみても、いいものはないような印象が残ってしまった。

 先月から続くTOKIOに所属していた山口達也の脱退のニュースが流れた。

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 非常に逆説的な言い方にはなるが、久しく行為に伴う責任を何らかの形で果たす、という姿を見ていなかったので、本人はともかくとして残されたメンバーの対応も含めて、妙に好感が持ててしまった。とはいえ、被害者の心の傷のことを考えると、そして元々の発端を考えると、このように考えるのはおかしいとは思うわけなのだが。

 この責任の関係については、日本大学アメリカンフットボール部の関西学院大学との試合における故意のタックル問題に繋がっていく。目下、マスコミ各社はこの対応についての報道をもっぱらとしている印象があるのだが、当事者である選手本人が会見を開いた。

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 内容としてはこのような若者が、「責任」の名の下に、おそらく本人が持つ以上のものを担わされている、というところが気になりつつも、やはり本人がタックル自体は行ってしまった以上、その行為に伴う責任自体は果たそうと心がけた――ようにも思われる。読む限りでは、ほとんど洗脳状態にあったとしか思えず、この内容が真実だとした場合、上記に記載した責任の重さというものは変わってくるだろうとは思う。

 この「責任」というものは、別の形でも求められるようになる。弁護士への懲戒請求をネット上のブログに煽られて、不当な形で行われた。内容は懲戒という名の下に通常考える範囲を下回るレベルの低さであるらしく、業務妨害などの方面で弁護士たちが動いている。

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 外交方面では目下、アメリカと北朝鮮の間で調整が続けられ、政治では働き方改革関連法案のうちの高度プロフェッショナル制について問題があるものの採決が見込まれる。沈んでいく国に住む者としては、沈む幅がどんどん大きくなっているような気がしてならず、それに伴って心身ともに体調が落ちていくので、どうしようもない月となった。

 その中で唯一光明とも言えるものが、ブレイディみかこ松尾匡北田暁大の『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』(亜紀書房、2018年)を読んだことであった。

 内容は下記の記事にて一部転載されているようだが、その力強さについてはいつも勇気づけられる。勇気づけられる、という言葉だけで終わらせるわけにはいかないのだが、その真っ当な鋭さが、この沈んでいく状況下においてどれだけ光明となるのか。

blogos.com

 個人的に読んでいて印象に残ったのは安倍政権下における経済(金融)政策は、その効果を最大化するためではなく、最終的な目標である憲法改正のための支持率向上のためのものでしかない二次的な目標で、金融緩和の効果はあったものの、その効果を最大化させなかった、というものだった。

 

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