Outside

Something is better than nothing.

『ヘイル、シーザー!』(2016年)

 コーエン兄弟の『ヘイル、シーザー!』を観る。

 ジョシュ・ブローリン演じるエディ・マニックスはハリウッドのスターたちのトラブルを処理する仕事を請け負っており、昼夜を問わず駆け回って、さらには教会で禁煙が果たせなかったことを告解するくらいなのではあるのだが、テレビの台頭に伴い、対抗策として歴史大作映画「ヘイル、シーザー!」を製作中に主演俳優のジョージ・クルーニー演じるベアード・ウィットロックが共産主義者に誘拐されてしまうので、犯人が誰なのか、ひとまず10万ドルを用意せよという指示に従う。しかしながら、トラブルはこれだけに留まらず、スカーレット・ヨハンソン演じるディアナ・モランは清純派女優で売り出しているにもかかわらず妻子ある監督と不倫の末に身ごもってしまうし、西部劇に数多く出演していたアクション系の若手俳優アルデン・エーレンライク演じるボビー・ドイルは、訛りがきつすぎてレイフ・ファインズ演じるローレンス・ローレンツ監督にぱちぱちと叩かれ、扱いに困っているし、そうでなくともエディにはロッキード社への引き抜きの話も出ている。かくてさまざまな狂騒の末に、共産主義者たちは身代金をせしめてソ連の潜水艦に乗り込もうとしたときにエンゲルスという名の犬が飛びついて資金を海中に落としてしまう。

 物凄い面白かったのだけれども、うまく感想にしづらい映画である。

 果てしなく人工的な設定や空間が続いていき、ある意味でビートたけしの『みんな〜やってるか!』、北野武の『監督・ばんざい!』を思い出しもしたのだが、この二つの作品と比べると明らかにストーリーがしっかりしているので退屈することはない。

 かなり技術力の要ることをあんまりさらっと見せつけられたものだから、うまく感想にならないのである。 

『ソーシャル・ネットワーク』(2010年)

 デヴィッド・フィンチャーの『ソーシャル・ネットワーク』を観る。二度目の視聴。

 ジェシー・アイゼンバーグ演じるマーク・ザッカーバーグは、ルーニー・マーラ演じるエリカと別れた腹いせに、ハーバード大学内の女の子をランク付けするウェブサイトを作成し、一躍悪い意味で有名になってしまうのだが、それをアーミー・ハマー(ジョシュ・ペンス)演じるウィンクルボス兄弟に目をつけられ、後のFacebookに繋がるアイディアをもったSNSを作らないかと誘われる。だが、アンドリュー・ガーフィールド演じるエドゥアルド・サベリンとともに別の方面でSNSを作ることを画策し、the facebookが完成し、ローンチするものの、だんだんと齟齬が生じてくる。

 プログラマーの青春映画と言えばいいのかもしれないのだが、視聴時はとにかく胸くそ悪い映画だと思って、あまりいい印象がなかったのだが、二度目の視聴は初めから胸くそ悪いものだと思った上で観ていたので、さほど悪い印象は抱かなかった。

 ある意味でジェシー・アイゼンバーグの演技が圧巻だったということになるのではないか、と思うのだが、個人的には劇中でさんざん優越感を示すことになる「ハーバード大」というプライドが、なぜかセックスに結びつき始めるところが実に学生的な感性で、ただの性欲を妙なプライドと知識とに結びつけて自己顕示欲のトッピングをつけたら学生的な性欲のできあがりといったところが、生態系として面白い。

 もちろんマーク・ザッカーバーグが筆頭ではあるけれども、青田買い的に若い頃に付き合って結婚しておけば、後に成功してくれれば億万長者になれる、ということなので、ある種の戦略としては間違っていないのだが、まあひたすらに不健全な遊び方をしていて、そういう意味で言えば森見登美彦的な恋愛の方が好ましく映ってしまう。

 しかしイギリスのエリート層もそうだと聞いたことがあるけれども、得てしてエリート層の倫理観のなさっぷりというのはここに描かれている通りであり、最初は嫌な奴だと思っていた劇中のザッカーバーグも、実は全然パーティーな狂騒に参加しておらず、常に一歩か二歩引いたところから観ているところも、最後の若手弁護士の言葉のような印象を受けなくはない。まあ、もちろんフィンチャーの嫌味ということなのだろうけれども。

『サブウェイ123 激突』(2009年)

 トニー・スコットの『サブウェイ123 激突』を観る。

 デンゼル・ワシントン演じるガーバーは地下鉄の運行司令室で働いているのだが、突如として電車が停まってしまう。不審に思って無線連絡をすると、ジョン・トラボルタ演じるライダーがハイジャックを宣言する。

 地味だけど佳作。

 ライダーの目的はニューヨークの地下鉄をハイジャックすることで、金相場を動揺させて、利益を得るという、実に私利私欲によるものであり、ハイジャック犯たちの行動に一切の精神性は関与しない。要するにそこにあるのは明確の資本主義における金融市場の倫理に則って、相場の変動に伴い利益を得るということだけで、そのもっとも効果的な方法(と彼らが考えついたの)が「テロ」(ハイジャック)だった、ということになる。

 だから交渉役は本質的にはガーバーである必要はない。ただ何となく気に入ったという理由と、おそらくジョン・タトゥーロ演じるカモネッティ警部補が気に入らない(警察側にアドバンテージを握られたくない)という理由で、ガーバーが選定される。ガーバーの行動をよく見ると、彼はただただ状況に巻き込まれていくだけであり、悲しいことに賄賂の疑惑でさえ、彼が選択したものではない。そしてその賄賂の使い先ですら、自分の私利私欲というよりは、実にささやかに教育資金として使ったと述べられるだけで、ここで描かれるデンゼル・ワシントン演じるガーバーは圧倒的に受動的な存在なのである。唯一能動的に行動したかのように思えるライダーの射殺についてすら、状況に対して仕方なく発射されている。そして彼がエンディングで購入している牛乳にしたって、結局は妻に言われたから、である。しかも、テロが起こる前は停職が言い渡される直前だった、という事情も含めれば、かなり悲惨な状況ではある。

 ライダー自身も元は投資会社の社長で、莫大な損失を出したために失職した経緯が語られ、実に権力欲を筆頭に欲にまみれた市長への復讐として、今回のテロを計画したといった描写もある。もちろん肯定するわけではないが、彼もガーバーとの会話の中で何度も使い捨てにされることなどへの怒りを表明していることから、このテロ計画自体も抑圧状況から生じたものだと考えられなくもない。

 二者択一の質問で人の命が扱われ、資金の到着が遅れたとき、ガーバーは市職員と警察の、双方食い違う指示に戸惑いながら、同時にライダーのカウントダウンを聞かざるをえない。そして、その完全なる受動的な立場に置かれている彼自身が選択をして、結局人質が殺される。

 ガーバーがライダーを殺すとき、トニー・スコット的な状況ではあるのだが、彼らは橋にいる。そして二人とも橋の真ん中で、決断を迫られる。渡りきることができず、途中で引き返すこともできず、向こうから警官数人が銃を持ってやってきていて、ライダーに唆されながら、ガーバーは決断を迫られる。けれどもこの状況はどう考えたところで受動的な状況と言わざるをえない。結果的に彼はライダーを殺すのだが、その後、市長に言われた言葉を思い出されたい。賄賂の疑惑はうまくやると言われたときの、彼の戸惑ったような表情。どこまで行っても、ガーバーは受動的な状況に置かれているように見える。