Outside

Something is better than nothing.

『レジェンド/光と闇の伝説』(1985年)

 リドリー・スコットの『レジェンド/光と闇の伝説』を観る。

 ミア・サラ演じる王女リリーは奔放な性格で、村を訪れては悪戯を繰り返していたのだが、天真爛漫の彼女は村中の人々に好かれていた。そんな純真無垢な王女には好きな男がおり、それはトム・クルーズ演じる野生児のジャックだった。彼らは純粋な恋愛を育んでいたが、時同じくしてティム・カリー演じる魔王が太陽を滅し、世界を闇に陥れようとユニコーンの角を手に入れるように部下に命令を出していた。ジャックはリリーにユニコーンを見せるために、その生息場所に連れて行くが、彼女はジャックの静止を振り払ってユニコーンに触れてしまう。本来、人間はユニコーンには触れてはならないのだった。魔王に命ぜられたゴブリンはその瞬間を狙ってユニコーンに毒矢を放ち、やられたユニコーンのオスはゴブリンによって角を折られてしまう。その影響で、それまで春の陽気が続く牧歌的な世界は、一気に冷たい、暗い世界に覆われてしまい、その前後で結婚の約束をしたジャックとリリーは離ればなれになってしまう。リリーは自責の念に駆られ、自分を見失う。ジャックはリリーが王女の約束として指輪を池に投げ込み、それを見つけられたら結婚するという約束のために池に飛び込んだ後に、彼女を見失ってしまう。メスのユニコーンまでやられてしまうと世界が闇に包まれてしまうので、ダーフィト・ベンネント演じるガンプという精霊とともに、ジャックは魔王を倒すための旅に出る。まずは武器を手に入れ、メスのユニコーンを保護し、彼らの本拠地に向かうのだった。その途中でリリーは魔王に見初められてしまい、闇の姿に身をやつしてしまう。魔王が太陽光に弱いと知った一行は光の反射を利用して魔王を倒そうと画策する。ユニコーンの処刑の間際に、闇に染まったかと思われたリリーが魔王に一矢報い、その好機を狙ってジャックが魔王と対峙する。魔王が光によって打ち払われ、世界に光が戻るのだった。そして闇に染まった心を取り戻すために、ジャックは池に飛び込み指輪を手に入れ、二人は幸せへと至るのだった。

 リドリー・スコットは正直なところ、あまり自分は好みではない映画監督ではあるのだが、その理由はといえば、おそらく絵の作りに関するものだと思う。私ははっきり言えば絵が分からないために、映画を観るときというのは、動きに着目している。けれどもリドリー・スコットはといえば、時に動きを犠牲にしても、画面を優先させる監督であり、そのときあらゆる動きは絵を前に止まらざるを得ない。だから弟トニー・スコットの、特に後期作品における、とにかく前へと画面を動かしていこうとする明確な映画の意志について、私はそういった事情から応援せざるを得ないし、その意味でトニー・スコットの方が、圧倒的に好みなのではある。

 とはいえ、本作はそういった個人的な好みはさておき、画面作りがとにかく好ましいものだった。大体常に何かが漂っている画面、というのは、トニー・スコットリドリー・スコットの『ブラック・レイン』とかもそうだ)の初期作に顕著だった、やたらスモークを使いたがる画面作りとは異なって、その幻想性に一役買っている。羽毛やらシャボン玉やらがやたら飛び交っているので、リアリスティックに考えるのであれば、登場人物たちは喋りにくいだろうし目も開けづらいのだろうが、そこはファンタジーなので考えない方がいいのだろう。

 比較的短い尺でありながら、ダレ場がいくつかあるのが気にかかるのだが、『プロメテウス』よりもマシというところで、かなり好みだった。

 そして、我らがトム・クルーズの最初期のキャリア、ということで、そもそもは視聴したのだった。トム・クルーズはこの映画の中で明確にアイドルとしての役割を付与されている。今まであまり気にならなかったのだが、この作品が最初期のキャリアだったからなのだろうか、微妙に歯並びが悪かったり、若い男の子の太ももをチラ見せすれば女の子がキャーキャー言うに違いないという目論見で丈の短い鎧をまとったりしているので、ある種の『カクテル』路線といえばそうなのだろう。

 演技的に着目すべきは、その後の演技の中で何度も反復されることになるトム・クルーズの「盲目的に陶酔する表情」の原型がここにあるということで、この表情のカルトっぽさは半端ではない。これは彼の信仰上の問題なのか、それとも役者としての演技力なのかはさておき、この映画の中には後のトム・クルーズ的な演技の原型がいくつもある(『卒業白書』もかなり顕著だったけれど)。

 トム・クルーズという役者に着目し始めたのは、蓮實重彦が触れていたからだったと記憶しているのだが、観れば観るほど不思議な役者に思えてくる。トム・クルーズという役者は、演技がうまいわけではない、と個人的には思っている。例えば『宇宙戦争』でキャッチボールをしているときの、トム・クルーズのボールの投げ方などは、どちらかといえば野球好きでそういう投げ方なのか、とちょっと思った(ただ実際、ああいう投げ方が普通なのかもしれないが)。

 ブラッド・ピットと対比することが適切であるかは自信はないのだが――ブラッド・ピットの演者としての巧みさと比べると、トム・クルーズは出演作がとにかく恵まれているから、という理由で人気かつ実力があると思われているような気がしてならず、それは『レインマン』を観てもなお思うところである。

 トム・クルーズの体の動かし方は、観ていると実に固い。動きの一つ一つが――例えば劇中で誰かに何かを教授しているシーンのトム・クルーズの体の動かし方を見よ!――ロボットのように、ある運動をすれば静止する、というのを繰り返している。とりわけ顕著なのは手の動かし方で、ジェスチャーを使ったトム・クルーズの演技というのは妙にぎこちなく、そしてそうであるがゆえに印象的に映る。

 ただ、そのような中でもトム・クルーズの身体がまさに卓越しているところは、例えば先の『宇宙戦争』でも『M:I:III』でも――もっとも優れたものとして『コラテラル』でも――印象的に描き出されているように、走るシーンである。彼の走りは、前述したような、動作の度に静止がかかるようなロボットめいた動きではなく、その静止の連続がまさに動く絵として画面に映し出されているような気がする。つまり手のジェスチャーごときでは、ゆっくり動かざるをえないがために、一つ一つの動作に違和感がつきまとうのに対して、走るときのトム・クルーズの動きは、よく見ると一つ一つの動きがきっちりしているのにもかかわらず、フィルムの一コマ一コマが高速に流れているがために滑らかに見えてしまう。

 それとは対照的に、印象的ではあり、否定的に観ているわけではないのだが、『トロピック・サンダー』のエンディングでトム・クルーズが踊っているシーンの面白さは、走るほどの高速性を担っていないがために、あのダンスの面白さはある、と個人的には感じている。つまり、一つ一つの動作完了に伴う静止が生きた上で、ダンスであるがゆえに、次のアクションに移っていくという、ゆるやかなモーションが、あの面白みを生み出しているのではないか、と。

 で、そのように前提してみると、トム・クルーズの身体というのは、もしかするとハリウッドスターの中でもかなり特殊なのではないか、と思うのである。ブラッド・ピットと先ほど対比したが、ブラッド・ピットは(感覚的に言えば)映画状況の中に自分の身体を適応させていくことのできる役者であると感じられる。『ファイト・クラブ』の野生児っぷりが、あの映画の状況下において求められた身体性と見事に合致しているがゆえに、タイラーを演じてまったく違和感がない。だが、トム・クルーズはどこまでもトム・クルーズ的な身体が常にあるような気がしてならない。だからこそ、彼は『バニラ・スカイ』で顔が破壊されていたのかもしれないし、『宇宙戦争』の中の振り返るシーンで「顔の消失」があったのかもしれない。もっと言えば『マイノリティ・リポート』での「目」の扱いも、ここに入れていいのかもしれない。

 トム・クルーズが好きになって数年経つのだが、彼の出演作を観れば観るほどに不思議な役者であると感じられる。

三、さん、スリー

"3"

 別に実証的な研究をしたいわけではないし、するつもりでもないのだが、この3という数字は、人間がとりあえず頭に浮かべてしまう数字であるらしく、たびたび使用されている。小説を読んでいると、よく過去の出来事を回想するときに想起されやすいのが「三年前」という日付で、例えば「三年前のある日、僕は彼女を失った」という文章と「二年前のある日、僕は彼女を失った」という文章を対比させた場合、どちらかというと前者に「しっくり」来るのではなかろうか、と思う。もちろん物語上の時系列がある以上、「二年前」にその出来事があるならば致し方ないのだが。

 三という数字は三顧の礼などの言葉もあるように、度々であるとか数多くとかそういった意味も孕んでいる。だが、三という数字は人間が通常数えうる数なのではないか、とも思うわけで、たかだか三が、なぜ多と同義になるのか、と理解に苦しむ。例えば金井美恵子は映画や小説を視聴し、読んだ数を五回以下ならば正確に覚えているし、覚えて然るべきだとどこかのエッセイで書いていたと思うのだが(私こそ記憶力に乏しい)、よくよく考えると私もそれくらいならば――つまり五ならば――覚えている。

 けれども、実際問題として多として扱われうる数としては圧倒的に三が多い。先に回想を例に挙げたのだが、ここの例題だと人が亡くなっている。人が亡くなって三年という月日が、もしかすると人間にとってもっともしっくり来る時間なのかもしれない。

 三年だ。
 三年という歳月が僕をこの十一月の雨の夜に運びこんできたのだ。
村上春樹「双子と沈んだ大陸」(『パン屋再襲撃』所収、Kindle版文春文庫、以下Amazonストア パン屋再襲撃 (文春文庫)

  また私はこの具体的な記述から、これを書こうと思い立ったのだった。

 三年という歳月に伴う、何か人間の記憶力や想像力などの限界があるのではないかと思ったのだったが、実は私も自分の創作物を見返すとばっちり「三年」をモチーフにしたものがあり、タイトルもずばり「三年という月日の思い出」となっている。

 村上春樹の短編では、例えばその箇所が「二年」に変わっていたら、どのように目に映ったのだろうか。単に文字の構造、あるいは表象された漢字と見栄えの問題ないし音声的問題も孕んでいるのだろうか。「二年」は「にねん」であり、「三年」は「さんねん」だが、後者は「ん」が二度続いている。

 そのことで、「にねん」や「よねん」や「ごねん」よりも、「さんねん」の方がややもったいぶって聞こえる、ということなのだろうか。そのもったいぶっている感じが、書き手に「二年」や「四年」を選ばせず、「三年」を選ばせる原因となっているのだろうか(そしてもちろん「一年[いちねん]」も長い方に含まれている)。

 もしかすると英語の場合だと(こちらは何となく「~年後」とした)、「one year later」よりも「six months later」とかの方が語感的に長く感じられていたりするのだろうか。映画の中での時間経過について、あまり疑念を抱かずに観ていたためにサンプルがないのだが。

桜の不在

CherryBlossom

 まったく気づかなかったのだけれども、通勤途中、学校の前に桜が咲いていた。けっこうびっくりした。別に俯いて歩いていたというわけではなく、普通に歩いているつもりだったのだが、まさか桜が咲いていたとは思わなかった。

 帰宅途中に、毎日行き帰り歩く道のりを通っていたときに、ふと目の前に秒速5センチメートルが!しかし、私は別に桜に思い入れはないので、ああ、と思って見上げたわけなのだが、曇り空の灰色の空の手前に、色鮮やかになりきれていない、おそらく人生でもっとも美しくない桜が現前して、私は二重で驚いた。

 花見が好きというわけではないし、むしろ井の頭公園周辺に住んでいたときは、花見客の殺到のために殺意すら湧いてしまうようになったのだが、そうなってくると秋頃の桜の樹というか葉の方が好みになってしまい、あの、非常に日本的な存在を仮託された桜の花びらの不在が、むしろこちらの心を安らかにしてくれると言いすぎると、政治性を持ちすぎているか。

 とはいえ今春見ることになった桜の秒速5センチメートルというものは、私は驚くべきほどに心象風景を表しているものなのかもしれず、ただ天候というケイオティックな代物による偶然性の表れなのかもしれず、あるいは神の手なのか。

 果たして定かではないのだけれども、ぽかぽかとした春の陽気がどこか忌々しく思われてくる。