Outside

Something is better than nothing.

『夜は短し歩けよ乙女』(2017年)

 湯浅政明の『夜は短し歩けよ乙女』を観る。

 大学生の「先輩」は後輩の「黒髪の乙女」に恋しているのだが、外堀を埋めるための「なかめ作戦」に引っ張られた所為なのか、延々と奇遇な出会い方をするだけで、外堀を埋め続けた先に一体どうなるのか分からない状態なのだが、大学の先輩の結婚式の後、二次会にて黒髪の乙女と今よりお近づきになろうかと思っている矢先、もっと酒が飲みたいと直感した黒髪の乙女は、機関車のごとく夜の木屋町になだれ込んでいき、バーで思い思いのカクテルを嗜んでいると、春画蒐集家の男に偽デンキブランの話を教わり、その後、男がセクハラを働くので、お友達パンチなる母親直伝の鉄拳制裁を食らわすに至り、天狗を自称する樋口と酔うと人の顔を舐め回す羽貫さんに出会って、さらなる魑魅魍魎の住まう夜の繁華街に繰り出していく。一方で「先輩」は黒髪の乙女を追い続けていたのだが、見失い、ズボンとパンツを奪われる羽目に陥り、先ほどのセクハラ春画蒐集家に飲みに連れて行かれる。その後、黒髪の乙女は詭弁術部の会合に加わり、今宵結婚式が行われた女性とかつて恋仲だった詭弁を弄する男たちとともに謎めいた詭弁踊りを踊り、酒を飲み尽くすとまた別のかつて詭弁部だった老人会にも赴いて酒を嗜み、百鬼夜行のごとく夜を闊歩するのだが、「先輩」を含め、春画蒐集家たち閨房調査団の会合に赴くと、李白と呼ばれる偽デンキブランを大量に保有する金持ちの乗用車「電車」がやってきて、「黒髪の乙女」は李白と飲み比べをするに至り、ペシミスティックな李白は生の喜びを率直に語る「黒髪の乙女」にほだされたのか単に飲み負けたのか、眠りこける。河川敷で「黒髪の乙女」は不意に自分がかつて持っていた『ラ・タ・タ・タム』という本を探したくなり古本祭り会場に赴くと、「先輩」もまたそこにいる。古本祭りの神に「先輩」は黒髪の乙女との邂逅を邪魔されつつも、樋口を含めた謎めいた集会に巻き込まれ、そこで激辛の鍋を食べきれば、欲しい本を欲しいままにできるという李白の甘言に巻き込まれて、戦いが始まる。「先輩」はなんとか勝利したものの、黒髪の乙女はパンツ総番長というリンゴの同時落下による運命的な恋をきっかけに験担ぎのためそのときのパンツをはき続けている、という男と出会い、学園祭に突入していく。学園祭ではゲリラ演劇が開催され、学園祭事務局長が移動式炬燵である「韋駄天」ともどもその行方を追いかけているのだが、なかなか尻尾を掴むことができない。そこではパンツ総番長の策略による運命的な女性との出会いの再現と彼女を探す旅がメタファーとして語られ、さらにはなんとミュージカルでもあるという有様で、黒髪の乙女は学園祭事務局に次々と捕まっていくヒロインの代役として舞台に登場しもする。「先輩」は最終公演におけるパンツ総番長ともキスシーンを阻止するため、そして自分が代役として黒髪の乙女と恋するために主役として躍り出るための行動をし、実際成功もするのだが、パンツ総番長の熱意は強く、そして公演の最後にはその彼女が現れてしまうのだった。そう、その彼女とは学園祭事務局長その人に他ならない。彼には女装する趣味があった。その恋は、しかし成立することはなく、助手を務めていた女性とパンツ総番長は鯉によってまたしても運命的な恋に至る――そしてその恋は春画蒐集家のものが竜巻によって空に飛んだものだった。上記の混乱の最中、蔓延した風邪により黒髪の乙女以外の人間が倒れてしまい、それは「先輩」もまた同様である。黒髪の乙女は風邪で倒れた人々の元に通い、直伝の卵酒を振る舞い、代わりにいろいろなものをもらう。李白の家に行き、彼の孤独を癒やし、そしてもっと孤独に苦しむ「先輩」の存在と、学園祭事務局長に言われた「先輩」への思いを自覚する。そうして、黒髪の乙女は吹き荒ぶ風に抗いつつも、「先輩」の家へ向かい、「先輩」は風邪で朦朧とする意識の中、性欲と体面と愛情と策略とに満ちあふれた脳内会合の末、彼女と向き合うことを選び取り、長い長い一夜が終わる。風邪が治った「先輩」と、黒髪の乙女はその後、きちんとした形でデートをし、あの「一夜」において、それぞれの身に何があったか語り合おうと思っているのだが、それはともかく、おそらくこう最後に記すべきなのだろう――成就した恋ほど語るに値しないものはない。

 長々とあらすじを書いたが、とりもなおさず言いたいのはとんでもない傑作だった、ということである。テレビシリーズの『四畳半神話大系』(2010年)もとんでもないアニメだったが、この作品もまた凄い。

 絵が雄弁に物事を語ってくれ、声優たち――とりわけ花澤香菜の黒髪の乙女――の演技も素晴らしい。独特のキャラクターは、物語の中にダイナミックさと妙な説得力を与えて止まない。

 このふたりの、あるいは彼らに関わった人々の長い長い夜というものは、人生における「特別な時間」というものなのだろうと思う。同時に、黒髪の乙女においては、人生でもっとも美しい時間だったのではなかろうか。そしてその「特別な時間」というものを、たぶん完璧な形で描ききった湯浅政明のとんでもない力量にはただただ脱帽するしかない。

 私は途中からずっと泣いてしまっていた。そのくらいこの「特別な時間」は素晴らしいと思ったし、人々の中にある、それぞれの瞬間を喚起する強いイメージがあったように思う。『四畳半神話大系』がだらだらとした生活の中にあるかげがえのなさのようなものを描いていたのだとしたら、『夜は短し歩けよ乙女』にはある瞬間におけるかけがえのなさを描いた、と言えるかもしれない。

 また、樋口や羽貫さんといった面々と再会できた喜びも多かった――一瞬だけ画面に映る小津や『四畳半神話大系』の「わたし」もいたし。