Outside

Something is better than nothing.

『ジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ジャングル』(2017年)

 ジェイク・カスダンの『ジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ジャングル』を観る。

 アレックス・ウルフ演じるスペンサーは冴えない高校生で、子供の頃からの友人であるサダリウス・ブレイン演じるアンソニーのレポートを代筆していたところ、それがバレてしまい居残りを命じられる。マディソン・アイゼマン演じるベサニーはそのルックス相まってほとんどの人から関心を持たれるあまりに自己中心的な性格として、テスト中に通話を行い、居残りを命じられる。モーガンターナー演じるマーサは体育の授業中にその意味を教師に問うた挙げ句に、うっかり教師を罵倒するような意味合いのことを言ってしまうので、やはり居残りを命じられる。かくして居残りを命じられた4人は校長より罰として地下室での単純作業を命じられるのだが、その地下室で彼らは「ジュマンジ」というゲームを発見するのだった。それを起動させたところ、何らかの魔力が働き、ゲームの世界に取り込まれてしまう。そこではスペンサーはドウェイン・ジョンソン演じるスモルダー・ブレイブストーン博士となり、アレックスはケヴィン・ハート演じるフランクリン・"ムース"・フィンバー、ベサニーは性別が逆転し、ジャック・ブラック演じるシェルドン・"シェリー"・オベロン教授、マーサはカレン・ギラン演じるルビー・ラウンドハウスとなる。彼らには三つのライフが備わっており、それは手首の辺りに入れ墨のような形で表示されている。また、この世界は悪に染められたボビー・カナヴェイル演じるラッセルが動物たちを意のままに操ることができる宝玉を手にしたものの、リス・ダービー演じるナイジェルというNPC兼案内役がそれを奪い、彼らに元あった場所に戻すという設定となっている。各キャラクターにはそれぞれスキルが備わっており、同時に弱点もあるのだった。彼らはライフを無駄に消費したりもしつつ、迫り来る悪の軍勢からの襲撃を受けつつ、なんとかこのゲーム内世界を理解し、呪いを晴らそうと行動していく。途中、ニック・ジョナス演じるマクドノーと出会い、ようやくゲームプレイ時のキャラクター選択数の5人が集まる。なんと彼は町で失踪したことになっていたコリン・ハンクス演じるアレックスだった。そこからマクドノーのスキルを活かしヘリコプターに乗り、サイの軍勢に襲われ、その後は暗闇の中ジャガーの襲撃を待つ道の中をチームワークで乗り越えたりしつつ、ラッセルとの最終対決に及ぶ。スペンサーとマーサは機転を利かせて、像に宝玉を当て込み、みんなで「ジュマンジ」と叫ぶことで世界に平穏が戻るのだった。その後、彼らは現実世界に戻り、かつてなら考えられなかった親交を結ぶ。そして20年間行方不明だったはずのアレックスは、ゲームクリアの恩恵を受け、20年前の昔からやり直すことができたらしく、最後に彼らはゲームを破壊して、未来へ進んでいく。

 例えば『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015年)の、その「怒り」かつ「デス・ロード」の時代がかったという言い方は不適切かもしれないのだが、熱さに対して、視聴する前から一定以上の期待を寄せ、なおかつ作品自体もその期待を大幅に上回るようなものを返してくれる――そういう幸福な映像体験というものは、希有な形ではあるのだが、あるにはある。

 だから、そういった意味で「ウェルカム・トゥ・ジャングル」という副題がつけられているこの作品に対して、ややもすれば前述の傑作にかつて抱いた思いのようなものを持っていた、というのは偽りならざる心情である。

 たしかにこの映画は面白かったと言えるし、大きな瑕疵はないように思う。映像は迫力があったし、設定もよかったと思う。個人的にはヘリコプターの下りは最高に面白く、まさか飛行中の回転するブレードの近くを修理するシーンなど、初めて観た。そしてその下をサイが走っており、低高度で飛行しているので時折機体をどつくのである。これは迫力があった。

 ただ、どうもバランスが悪かったのではないか――というのが視聴後に私が抱いたものだった。どこが、と言われれば、具体的には脚本である。

 おそらく現実世界とゲーム世界の間で、登場人物たちのキャラクターが地続きになっていることもあり、性格上の背景を現実世界にて示す必要に駆られたことから、その現実世界における描写にゲーム内世界が引っ張られた、といっても過言ではない。

 で、これは対象とするゲームの性質、にもよると思う。この「ジュマンジ」というゲームソフトはカセット型のソフト(1996年にアレックスがプレイしていた、という設定に寄せたかと思われる)なのだが、当然オンラインプレイを前提としていない。すると、オンライン上で初めて他のキャラクターとまみえて、ゲームプレイに至るということを前提としていない――つまり、ある種の世代にとって当然のことではあるのだが、友人宅に行って、みんなでワイワイ見知った人たちとのみプレイする、といったことを前提としている。

 その場合、この映画で描かれたように、ゲームプレイに現実の性格が濃厚に反映され、映画としてのストーリーラインを考えるならば当然に現実での性格も描写しなければならないだろう。その結果としてのこの映画では現実世界とゲーム内世界の両方を描写したかと思われる。

 たぶんこの辺りのもやもやはきちんと読んではないけれども『ソードアート・オンライン』等の設定等にも絡んでくるかと思われる。(私が読んだ中で)この小説中だと現実世界の描写は乏しかったような気がする。だからこそ、スペンサーが最後に迷うような、ゲーム世界にずっといたい、という言葉の真実味が増してくる。簡単に言えばオンラインゲームだけなら、自分をいくらでも「盛れる」のだ(盛った分だけ現実とのギャップが増す)。ベサニーによってさりげなくInstagramを巡る「イメージ」の扱いについて触れていながら、どことなくこの「盛れる」かどうかについての視線がなかったような気がする。最終的に彼らはみんな仲良しになっているし、マーサともうまくいったスペンサーがどうしてゲーム内にいたがるのか。アレルギーの描写もあったが、潜在的に抱えていることだけが分かり、どの程度のものなのか軽重が分からない。

 また、ゲーム内設定としては宝玉がすでに手元にある、というところにもやや違和感が残り、また敵として登場するラッセルのキャラクターと動物を操る能力についても違和感が残った。