Outside

Something is better than nothing.

『15時17分、パリ行き』(2018年)

 クリント・イーストウッドの『15時17分、パリ行き』を観る。

 2015年8月21日に発生したタリス銃乱射事件に立ち向かった3人の若者を描いた映画で、演じた俳優がその若者本人という映画である。スペンサー・ストーンは幼い頃から献身的な精神を持っていたが、家庭環境その他諸々の影響からか、それを発揮することができず、長じてからも芽が出なかった。しかし誰かを救いたいという思いだけは持ち続けた彼は軍人としての道を歩み始めることになる。一方、幼い頃から悪友として連んでいたアレク・スカラトスは一足先に軍人として海外派遣されており、もう一人のアフリカ系の友人アンソニー・サドラーと共にヨーロッパ旅行を企てるのだった。いかにも若者らしい享楽的な旅路を歩んでいく中で、道行く人々にパリだけは微妙という評言に出くわすことで逆説的にパリに興味が募るようになり、何もかも最高だったアムステルダムを後にして、15時17分、パリ行きの高速鉄道タリスに乗り込む。しかし、そこではレイ・コラサーニ演じるアヨブ・エルカザニ(テロリスト)が大量の武器弾薬を持ち込み、タリスを襲撃せんとしていた。最初に気づいたのはアメリカ人の夫婦連れで、夫は飛び出してきたテロリストに対し、武器を奪うという勇気ある行動を行うが、拳銃によって銃撃されてしまう。若い3人、特にスペンサー・ストーンはこれこそが自分の求めていた瞬間なのだと、躊躇いもなくテロリストに突撃し、カッターナイフで首を切りつけられながらも犯人を押さえ込むことに成功する。また、他の2人についても素早く現場の状況確認と犯人の押さえ込み、そして怪我人の救護に動く。初動が早かったため、持ち込んだ大量の武器弾薬の割には何ら成果を挙げることができず、テロリストは鎮圧される。その後、フランス大統領より勲章が贈られ、アメリカでも凱旋パレードが行われるのだった。

「事件」というものがどのようにして発生したのか、その瞬間――私はこれを「事態」と呼んでいるのだが、その事態そのものというものは常に不在の中心として、確実に起こったのだけれども、後に想起する場合はぽっかりと穴が空いてしまったかのように、何らかの形で損なわれてしまっている。喩えて言うなれば、液体がなくなってしまった杯のようなもので、そこにはかつて何かで満たされていたはずなのに、残された杯からはどれだけのものがあったかの痕跡だけが分かり、肝心の内容物は永遠に分からない。

 この映画は、個人的にはそういった類の映画だと、まず私は感じた。事態そのものはすでに起こっているし、そこで英雄的な行動をした(とりわけ)スペンサーの行動を、過去から連綿と続いた動機の結果として描くこと自体に、私は問題を覚えない。たとえそれを追体験するのが本人だったとしても、それはそれとしてありなのだろう。

 ただ、時折見せつけられる観光ビデオのような瞬間や、勲章授与式における実際の報道映像と作為的な映画の映像とのオーバーラップを見せつけられるにつれて、どっかうんざりしたような気持ちにもなってくる。

 どうしてこれが「うんざり」という気分なのか、ということについて、私は明瞭な言葉を持たないのだが、けれども、如何ともしがたい感情として「うんざり」はあるのだった。

 で、もしかすると、と思ったのは、そこにあるのは杯としての映画ではなく、かつて何かが杯を満たしていたであろう液体として(撮られた)映画が、この『15時17分、パリ行き』なのではないか、というのが今のところの答えである。

 だからこそ、時折まるっきり創意というものが感じられない映像が挿入される理由というものも、それが映画として作為的に撮影された瞬間であるという前提があるにしても、理解できなくもないのだし、授与式の服装が再現されている様を見るときの、何か妙な具合に騙されているような居心地の悪さというものも説明がつくのではないか、と思う。

 また、それが本当にあった発言なのか分からないイタリアでの何かに導かれているような云々という台詞や、パリ行きを運命づける数々の評言もまた、そうだからこそ、のものなのかもしれない。