Outside

Something is better than nothing.

『スリー・ビルボード』(2017年)

 マーティン・マクドナーの『スリー・ビルボード』を観る。

 フランシス・マクドマーンド演じるミルドレッド・ヘイズは、数ヶ月前に娘のアンジェラをレイプされた上に焼かれて殺されるという凄惨な体験を持っており、南部の警察が犯人を未だ挙げず、アフリカ系の住民を虐待するのに勤しんでいる(要するに差別的で前時代的な)状態に業を煮やし、ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ演じるレッドの広告会社に自宅近くの、へんぴな道路に設置されている「三つの広告用看板」に、警察に対するメッセージを記載した広告を掲載する。これは非常に効力を持ち、ウディ・ハレルソン演じるビル・ウィロビー警察署長は事件に対して対応せざるを得なくなる。しかしながら、名士として名高いビル署長に対する非難に対して、警察内部でも地域内部でも反発があり、例えばほとんどレイシストとして活動するかのようなサム・ロックウェル演じるジェイソン・ディクソン巡査は、レッドやミルドレッドに対して恐喝まがいの行動を取る。しかしビル署長は彼をなだめ、状況を収めようとミルドレッドの元を訪れるのだが、しかし逆に彼女は警察の怠慢を責める。状況がうまく改善されないと踏んだ署長は、自身が膵臓ガンで余命短いことを告げてどうにか矛を収めるようにいなそうとするものの、意志が固いミルドレッドは意に介さない。地元において、このビル署長への非難については賛否両論になり、数々の妨害が行われるようになるのだが、しかし一向に捜査は進まない。ルーカス・ヘッジズ演じるミルドレッドの息子ロビーもまた、彼女の方針に対しては否定的だが、彼女は鉄の意志を持ってして行動を実践する。ところが、ある日、死期を悟ったビル署長が自ら命を絶つことを選んだことをきっかけに、まるでミルドレッドの看板が死の直接の原因であるかのように非難されるに至って、町のムードは彼女への冷たい視線に溢れるのだった。そしてある日、彼女の看板が何者かによって焼かれてしまう。しかし、その看板はといえば、署長のミルドレッドへの目セージによると、彼自身が最後に援助したものだったにもかかわらず。ミルドレッドはビル署長を失って憤った警察の手によるものだと思い、復讐のために火炎瓶で警察署を襲撃する。そしてその中には、ビル署長が亡くなった直後、前後の見境なくレッドを殴り、窓から放り投げたディクソン巡査がビル署長の最後の手紙を読んでいた。彼は火だるまになり、顔を含めて酷い火傷を負う。しかし、彼はアンジェラの捜査資料を火から守り、またビル署長の最後のメッセージを真摯に受け止めたのだった。病院の中で彼は自らが不当に暴力を振るったレッドに再会し、彼から恨みを抱かれつつも冷静に親切に対応されたことで、これまでのレイシスト的な行動に別れを告げ、アンジェラの事件に寄与したいと動き出す。とはいえ、彼はビル署長死後に着任したアフリカ系の署長に自分の暴行現場を見られたことで、バッジと拳銃を返還していたのだが。一方、ミルドレッドは警察署襲撃の際にピーター・ディンクレイジ演じるジェームズという小人症によって背が小さい男性と食事をしているときに、元夫のジョン・ホークス演じるチャーリーと若干19歳の交際相手と出くわし、その会話の中でチャーリーが看板を焼いたことを告げる。彼女は闘争心を剥き出しにするのだが、ジェームズに常に反発心を抱き続けることを諫められ、そのときは矛を収める。他方、ディクソンは酔い潰れてバーにいるときに、男がアンジェラ殺害のような手口で女性を殺したことを仄めかしたことを聞く。彼が犯人だと確信したディクソンはあえて彼に自分を殴らせてDNAを採取する。その後、結果が出たものの、彼は犯人ではなかった。ミルドレッドに一時的に希望を抱かせることはできたものの、アンジェラを殺害した犯人は結局分からずじまいに終わってしまう。しかし、彼もまた何らかの形で女性をレイプし、殺害している。ディクソンはそう確信している。ミルドレッドもまた、彼のことが許せない。二人は車に乗り、彼がいるアイダホに向かう。彼を最終的に殺すかどうか、それは道々で決めればいいということで、映画は幕を閉じる。

 有り体に言ってしまえば、復讐にまつわる物語、ということができる。けれども、おそらく多くの物語の典型がそうであったように、その復讐の主体は男性ではない。だから、ということで目新しいわけでもないし、だから、というただそのことだけでこの作品が優れているというわけではないにしても、この映画におけるフランシス・マクドマーンドの演技は飛び抜けて素晴らしい。

 明確な意志と、揺るぎない行動。この二つによって、『スリー・ビルボード』は紛れもなく傑作に仕上がっている。状況は複合的な背景を描いて、なお整然としており、同時にビル署長やディクソンを初めとする人物の背景をしっかりと描いて、しかもレッドの淡い恋模様のようなものすらきちんと描いている。描写は適切であり、シリアスさは保たれている。

 そしてそれを可能にしているのは、繰り返しになるのだが、フランシス・マクドマーンドの表情であり演技であることに間違いない。

 最終的にこの映画はミルドレッドとディクソンによって、どこか別の場所に運ばれてしまうことになるものの、それまでの過程について私はどうこう言える立場にはない。おそらく『ゾディアック』と同じように、これはある種の世界精神に触れた結果なのだろうと私は思うのだ。

 そしてその世界精神に触れたが最後、彼女たちは果てしなく影響され続ける。人生を、あらゆる意味でねじ曲げられてしまう。

 その世界精神の外側にいたビル署長は、非常にアメリカ的でフェアな人物だと私は思う。あの幸せな家庭と徹底的に常識的な対応。けれども、その外側にいる人物たちはどうなのか。ミルドレッドは?ディクソンは?あの、イラクにいた帰還兵は?

 彼女たちの現実は、もうとっくのとうに破壊されてしまい、後に残った何か原型のような強烈なものが、彼女たちを突き動かしているのではないか?