Outside

Something is better than nothing.

『オープンハウスへようこそ』(2018年)

 マット・エンジェルとスザンヌ・クゥートの『オープンハウスへようこそ』を観る。Netflixオリジナル。

 ディラン・ミネット演じるローガンは、陸上選手としてオリンピックを目指せるほどのスプリンターで、父親とともに夢を語り合っていたが、ある日コンビニで買い物をしている途中、車へ戻ろうとしている最中に心臓発作によって暴走した車に轢かれて父親が亡くなってしまう。目の前で父親が亡くなるというショッキングな出来事にローガンは打ちひしがれるが、母親であり妻であるピアシー・ダルトン演じるナオミは、それ以上に経済状況の逼迫に晒される。どうやら妹の方は裕福であるらしく、住んでいる家の家賃が払えそうにないナオミは彼女の別荘にオープンハウス(家の内覧会)を行う間を除いて、住まうことを提案される。別荘に移り住んだ彼らは、近所に住むアルツハイマーを患った女性や、何かと親切な男性、怪しい挙動をする不動産屋といった、腹に一物ありそうな面々との邂逅を果たし、同時に家の中で何事かが起こる。物の移動や不自然な出来事を始め、家の中に彼らに気づかれずに歩き回るなど、彼らの気づかぬ間に危険な手が忍び寄っている。一度、オープンハウスのために家を空けている最中に、空き巣に入られ、不気味な装飾を施された部屋を目の当たりにしたときに、警察を呼び、事態の異常性を把握するものの、経済上の都合で家を出て行くことができない。仕方なく知り合った親切な男性の手を借りて、家の中を警戒することにするのだが、ローガンは家の外、車の中で喉を掻き切られて死んでいる男性を見つける。ローガンもまた何者かにガラスに頭をぶつけられ気を失い、さらには液体をかけられてしまう。ナオミはその何者かに襲われ、何度も殴られた後に指の骨をすべて折られるなど悲惨な目に遭ってしまう。ローガンは失神から目覚め、母親を助けた後に現状を打開しようと警察に連絡しようとするが、電話線は切られスマートフォンSIMカードは抜き取られており連絡することができない。犯人を探している最中に、母親がまたしても襲撃され拐かされてしまうので、地下室に探しに行くものの、手前に突き出していたナイフに飛び出してきた(あるいは押された?)母親の腹に刺さってしまい、母親は死んでしまう。ローガンは恐怖に駆られ逃げ出すが、犯人もまた追いかけてきて、ローガンのコンタクトレンズを外すので犯人の顔がぼんやりとしてしまう。なぜか逃げることを許されてローガンは冬の森の中を逃げ惑うが、アルツハイマーの女性を犯人と勘違いして隠れ、川辺で休んでいるときに最終的に犯人に殺されてしまう。そしてまた犯人は次のオープンハウスへと旅立つのだった。

 なんだかよく分からないまま、思わせぶりな連続の果てに、その思わせぶりのすべてがかわされて、犯人不明なまま映画は終わるのだが、ある意味でこれはその思わせぶりの連続をサスペンスとして享受することができるのかどうか、に重点があるのかもしれない。

 かなり穿った見方をすれば、サスペンスホラー的な演出における観客の無意識の「期待」についての批評的な映画だ、と言うことができるかもしれないのだが、しかし同時にそれをしてどうなるんだ、というある種の虚しさを体現しているようにも思われてならない。

 個別の要素――父親の死、父親の借金、姉と妹、地下室の閉鎖された通路、ローガンとナオミが出会った人々、彼らの言った言葉(例えば家は売れない、という呪いのようなもの)、「犯人」――は、それが登場した段階では充分に成功している。ただそのすべてが有機的に結びつくことなく映画が終わってしまうので、その要素の果てを映画的文法に沿って期待してしまう観客としてみれば、肩すかしを食らってしまうのだった。

 ある意味で『イット・フォローズ』(2014年)の背景の奇妙さ、に繋がるような、そういう印象がある。あの映画の中でも劇中で流される映画や小物の時代設定が微妙に食い違っているが、それらについて直接言及されることはない。

 上記のように書きつつ、私は嫌いではない作品だった。文法をすべて知った上で、あえて外していく姿勢と、その外す姿勢の中で案外悪くない一定のまとまりがあるのだ、というところについてが。

 こういう作品がNetflixという媒体に上がってくる、というのはかなりいいことなのではないかと個人的には思っている。

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