Outside

Something is better than nothing.

『ザ・マスター』(2012年)

ザ・マスター(字幕版)
 

 ポール・トーマス・アンダーソンの『ザ・マスター』を観る。

 ホアキン・フェニックス演じるフレディ・クエルは第二次大戦に従軍後、精神を病み、数々の職を転々とするが、アルコールに溺れている。彼には独自のカクテルがあり(おそらく何らかの薬物が入った)、それをある日勤め先で一緒に飲んでいた相手を酔い潰れさせてしまうと、毒を入れられたと疑われ、逃亡しているときに、フィリップ・シーモア・ホフマン演じるランカスター・ドッドの船に乗り込む。身元不明のクエルをトッドはその特別なカクテルの美味に引きつけられるような形で歓待し、船上で行われる自身の娘の結婚式に招く。クエルは独特なカクテルを作る代わりに、トッドのセラピーを受け、戦後、クエルが思いを寄せていた娘に夢の中で出会う。トッドの不思議な魅力にクエルは随伴するようになり、彼がある種の思想家であり、世評はあまり芳しくないこと、敵対関係者が多いため、トッドのために彼らを排除する必要を感じるが、暴力を振るうたびにトッドに咎められる。彼はトッドのグループの中に収まるようになっていくが、性的な妄想とアルコールの呪縛からは逃れられない。そしてトッドもまた近親相姦的な関係が娘との間にあり、また彼もアルコールから逃れられない運命にある。ある日、トッドの行う施術と称したセラピーが無許可診療に当たるとの警察からの指摘からトッドは捕まり、彼を守ろうと抵抗したクエルも捕まる。クエルは暴力性を露わにする。釈放後、バイクで荒野を走らせるクエルは、やがてどんどん先へと向かっていき、姿を消す。またしても流浪することになった彼は故郷に戻り、かつて誓い合った娘の元を訪れるが、彼女は別の男と結婚している。映画館にいるところに、トッドからの電話がなぜか入り、彼がいるイギリスを訪れるようにと言われる。そこで二人は永久に別れることとなり、クエルは街で拾った女性とセックスしている最中、かつてトッドが自分にしたようなセラピーを行おうと試み、戦時中、ビーチで象った砂の女の乳房に顔を埋めるのだった。

 物語はほとんどなく、クエルの客観的には理解しがたい「衝動」と呼ぶより他はないような行動の数々に対し、ほとんど好々爺的な表情を崩さず、ある意味で「本心」など元より存在していないかのようなトッドが対置され、その二人の距離がひたすらに描かれていき、そしてある意味で言えば物理的な距離のみがそこにはあり、心理的な距離について言えば、初めから最後まで変わっていないのではないか、と思われる作品だった。

 思いのほか画面に映し出される映像のリズムが居心地がよくて、はっきり言えばクエルがひたすら飲んだくれ、どんな女も裸に見てしまうような性的迷妄に囚われ続け、父のような相貌を崩さないフィリップ・シーモア・ホフマンの表情を眺め続け、どこか無邪気で残酷な子供の表情を持つクエルことホアキン・フェニックスを見続ける映画なのだけれども、場面の繋ぎが心地よくて気づけば映画が終わってしまっている。

 おそらく元々の素材の持つ物語の拡張性のようなものを際限なく削ぎ落とし、物語的な技術ではないところに重点を置いた結果、この類い希なる傑作が生じた、と言えるのではないか。

 映像の手触りや、場面と場面の繋ぎ、音楽の使い方、あるいは挿入されるエピソードの配置――こういったもののすべてが理想的だったように思う。ある意味でこういう小説を書いてみたいような、そういう類の理想だ。

 個人的にはPTAことポール・トーマス・アンダーソンのベストムービーだと思う。