Outside

Something is better than nothing.

『僕だけがいない街』(2017年)

 

 下山天の『僕だけがいない街』を観る。Netflixドラマ版。映画版、アニメ版は未視聴。原作は未読。

 青年期は古川雄輝、少年期は内川蓮生演じる藤沼悟は、リバイバルと呼ばれる、何か事故等が発生しかねない局面に接したときに、一定の時間を巻き戻して、その局面を再体験できるという能力を持っていた。彼は北海道出身で、幼少の頃に自分の所属する小学校、そして同じクラス内の子供が被害者となった児童連続誘拐殺人事件の傷が深く残っていた。青年期の悟はアルバイトをしながら生計を立て、その中で漫画家を目指していたが、突然訪れるリバイバルに対応していくうちに、子供が巻き込まれる交通事故を未然に防いだ代償として、自身が事故を起こしてしまう。看病に訪れた同じアルバイトの優希美青演じる愛梨に悟の行動に対して好意を抱かれつつ、黒谷友香演じる母佐知子が北海道より上京して、以後一緒に生活を送っていたが、ある日、佐知子が何者かに殺害されてしまう。そしてその犯人に悟が犯人であるかのように仕立てられてしまう。悟は逃亡するものの、その途中にリバイバルが発生し、かつての小学校に戻るのだった。そこで悟は連続誘拐殺人事件の第一の被害者、柿原りんか演じる雛月加代を助けるために奮闘していく。雛月は母親に虐待を受け、そのことがきっかけで対人関係をうまく構築することができず、クラス内でも孤立しがちだったが、戸次重幸演じる八代学教諭と協力していき、仲を深めていく。しかし、肝心の事件発生当日(悟の記憶に基づく)を過ぎることはできたが、その後、雛月はやはり何者かに殺害されてしまう。リバイバルから戻った現代の悟は、引き続き母親殺害容疑を元にして追われていた。愛梨が献身的に悟をサポートしてくれるが、それにも限界があり包囲が狭まっていく。そして愛梨すらも何者かに襲われ、アパートから転落させられてしまう。己の不甲斐なさを感じつつ、悟は二度目のリバイバルを経験することになった。今回のリバイバルで悟は、青年期は白洲迅、少年期は小田陽翔演じる小林賢也を含めて、周囲の人間とも積極的に関わっていき、ある程度の情報を開示しつつ、雛月を手始めに、孤立しがちな子供たちへの積極的な働きかけを行っていく。現代の情報を元に、誘拐される対象の子供たちは孤立していることが問題であると判断した悟は、仲間と一緒にアジトで遊ぶことでそれを未然に防いでいく。しかし、雛月を攻撃したことでクラスの中で孤立するようになってしまったクラスメイトを仲間に加えようとしたところ、犯人の思惑に乗っかってしまう。犯人は八代学、つまり先生だったのだ。八代は悟を車の助手席に座らせ、睡眠薬を飲ませた挙げ句に凍った池の中に落としてしまう。そして悟は十数年もの間、意識が戻らない状態が続く。リバイバルから戻ることなく、現代まで時間が経過した悟は、眠ったまま、母の介護を受けながら昏々と眠り続けていたが、ある日、目を覚ます。悟の活躍をきっかけに、当初の記憶では発生した連続児童誘拐殺人事件は発生していなかったが、それ以前に八代が起こしていた事件はやはり未解決のままだった。賢也は弁護士になっており、正義感から事件を追い続けている。始めは記憶を取り戻せなかった悟だったが、やがて八代が犯人であることを突き止めると、八代を逆に罠にかけ、八代を捕まえることに成功する。かくして、悟のリバイバルをきっかけにした旅は、ようやく終わりを告げる。最後に、愛梨ときちんとした形で出会っていなかった悟は、雪宿りをきっかけに、愛梨と出会うのだった。

 物語自体は序盤の展開に疑問が残るものだったのだが、撮影の方針が以前に監督インタビュー記事の中でもあったように、一定の暗さを維持しつつ、苫小牧の美しい雪景色を堪能することができ、一つのスタイルを為している。物語のどうでもよさに比べると、この撮影スタイルの透徹が結果としてNetflix版の『僕だけがいない街』を際立った作品として作り上げさせることに成功していると私は思う。

 もちろん子役を初めとする俳優たちは相当に頑張っていた。特に子供時代と青年時代を含めた「藤沼悟」を演じた古川雄輝と内川蓮の存在感、そして雛月加代を演じた柿原りんかの、大人びた魅力(虐待期)と仲間と一緒に遊ぶ子供らしさの混在は、演出を超えた俳優としての魅力だろうと思う。

 非常に局地的な物言いにはなるのだが、日本ドラマとしては相当なクオリティで仕上げてきたなという感触があり、おそらくこのクオリティで後はもう一つ何かブレイクスルーがあれば、強かな作品が出来上がるのではないか、と思うのだった。

 そういった意味で言えば、この原作の選択が、撮影スタイルに合っていたのか、と言われると、苫小牧を除くと、やや疑問に残ってしまうのだった。