Outside

Something is better than nothing.

『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』(2015年)

 サム・テイラー=ジョンソンの『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』を観る。

 ダコタ・ジョンソン演じるアナスタシア・スティールは大学生で、熱を出した友人に代わって学生新聞のインタビューのため、ジェイミー・ドーナン演じるクリスチャン・グレイの元に向かった。彼は若くして成功して大富豪になっていたため、その秘密に迫ろうというものだった。彼女はおずおずと質問を切り出し、高圧的なグレイはその様を嗜虐的な気持ちで楽しんでいたものの、彼女の純真さが何か気にかかったのだろう、だんだんと心が惹かれていく。そして男性経験がないアナもまた、グレイの性的な魅力に惹かれていくのだった。しかしグレイは誰にも心を開かない男で、なぜなら過剰な支配欲と嗜虐趣味を持っていたためであり、彼と恋人になるにも秘密保持契約を取り交わし、その後の本契約を経た上で行わなければならないほどだった。かくしてアナはそんなグレイとの間に愛を育めるのかと心配になるのだが、何のことはない、グレイは単純にどうしようもない支配欲の塊である以上、行く先々に現れるストーカーと化し、性的な経験が少ないアナを翻弄し、動揺させ、混乱したところを酒の力も使ってパクパクと食べ、さらには自分の思い通りにならない場合はお仕置きと称して虐待する始末、こんな男の風上にも置けない奴をのさばらせておくわけにもいかないと思っていたところでグレイは実は悪魔であることが判明し、慌てたアナは教会へと逃げ込む。必死に神に祈りを捧げ、教会の不可侵領域にすらやすやすと侵入し始めるグレイに、とうとう神は怒りを覚えたのかアーノルド・シュワルツェネッガー演じるジェリコ・ケインを召喚し、神の業火が彼の住まうビルディングを破壊、グレイは地獄へと飲み込まれて死んで行くのだった。そしてアナは永遠に感情を分かち合うことができない悪魔グレイとの別れを、多少の感傷を胸に抱きつつ、修道院へと入っていく……もう二度と誰も愛さないと誓いながら。

 後半は『エンド・オブ・デイズ』(1999年)から。

 さて、本作は私見によるとアメリカ女性におけるセクシーの概念がエロスに敗北した貴重でも何でもない映画だと考える。例えば『ニンフォマニアック』における肉体は、どうにも倦怠なものを抱えていたのだが、本作における肉体はどこか明るすぎやしないか、と思わなくもない。そしてこういった肉体の陰陽は別に本作に限ったことではない。もちろん前者だから、後者だから優れている、優れていないというわけではなく、この主題にとりこの肉体を選択するのは間違ってはないのだろうか、と思うのだ。だから、『エンド・オブ・デイズ』のよく分からない不思議な母子ともどもを吸収していく悪魔による性行為は、彼女たちがアメリカ人であり、明るい肉体を持つが故にどこか健全なエネルギーを吸収しているのだ、という表象になりたのだろうとも思うのだし、これを場所をヨーロッパに移し替えて肉体をすげ替えたとき、その表象はどう考えても搾取のような悲惨を孕んだものになるのだろう。

 かのような意味合いにおいて、本作で描かれている謎めいた性的な懊悩というものは笑止千万というより他はないのではないか、というのが私の感想であり、さらに言えばこれは日本のマンガにおけるある表象と密接に繋がっているような気もする。

 それはりぼんとかちゃおとか呼ばれる、いわゆる少女マンガに属するもので、この少女マンガのジャンルについても内実が多岐にわたる故に、あくまで便宜的な呼称に過ぎないと理解していただきたい。とはいえ、このジャンルにおける王道を割とこの作品は的確に踏まえているような気がする。まず主人公は恋愛に対して得意というわけではないキャラクターであり、対して相手役は恋愛経験が豊富となっている。そして互いによく分からないけれども惹かれていき、よく分からないままに偶然が重なり、よく分からないままに一回目のキスとか体を重ねたりすることがあり、よく分からないままによく分からない理由で互いに反発し、そしてよく分からないままにくっついたり離れたりする。で、やっぱりよく分からないままに互いに好き合っているのである。

 私はこの上記のような少女マンガ的な描写が一時期とても好きでよく読んでいたのだけれども、まあしかし映画で観るようなものではない。