Outside

Something is better than nothing.

誤った認識に基づき頭を叩かれる

Sharon Corr

 一年ほど前になるが、妻の知り合いと一緒に三人でお酒を飲む機会があり、飲んでいると、その知り合いが私と同じ大学出身ということが判明した。その人の方が年配だったので、先輩後輩という仲になるわけなのだが、それが判明した途端、その方の態度は横柄になり、生意気だということで頭を叩かれたことがある。

 まったくの他人から、このような仕打ちを受けるのはおそらく高校生以来のことであり、私は驚いたのだが、叩いた当人はと言えば、陽気そうにお酒を飲んでいた。私はそれ以来、その人とお酒を飲む機会があったとしても避けるようにしているのだが、妻を通じて何度か誘いをもらっているのだが、そう考えるとその当人にとって、頭を叩くということは何でもないことのように感じられていることが分かる。

 もちろんその人は会社勤めをしており、さらには東証一部上場企業にも勤めている人間なので、コンプライアンスを知らないはずもなく、昨今のハラスメント事情にも通暁しているはずなのだが、しかしながら私が大学の「後輩」――とはいえ、当然面識もないのだから「先輩」らしいことをしてもらったことは一度もない――と分かった途端に、それまで見せていた「知り合い(私の妻)の夫」という認識から、突然「後輩」へと認識を改め、平然と頭を叩ける間柄になったのだと誤認した。

 何も、知らないのである。わからないのである。優しさということさえ、わからないのである。つまり、私たちの先輩という者は、私たちが先輩をいたわり、かつ理解しようと一生懸命に努めているその半分いや四分の一でも、後輩の苦しさについて考えてみたことがあるだろうか、ということを私は抗議したいのである。(太宰治「如是我聞」より)

  もちろん私は当人の「後輩」であるわけではないのだから、その「先輩」「後輩」という関係性が擬似的に構築させられてしまったその瞬間において、太宰治の「如是我聞」を思い出したのは、誤認識の伝播というより他はない状況ではあるのだが、それにしたって私にとって先輩という存在は大体において後輩のために骨を折ってくれる存在であった。少なくとも私自身の先輩の理想像というのは後輩の頭を無碍に叩く存在ではなく、後輩を助ける存在であり、理解者であった。

 実際、その域に達することができていなかったとしても、あくまで理想像としてはかようにありたいものだと私は常々思っていたのだが、かくも無残な「先輩」を目にしてしまうと、若い認識なのかもしれないのだが「このような大人にはなりたくないな」と思うわけであり(とはいえすでに私は充分に大人なのだから、「このような中年にはなりたくないな」が正しい)、東証一部上場企業にあってもなお、このような謎めいた(事実に基づかない)「先輩」「後輩」関係は擬似的に構築されうるのだなと人間というものの持つ認識の精度の悪さをまざまざと思い知らされることになるのだった。