Outside

Something is better than nothing.

三、さん、スリー

"3"

 別に実証的な研究をしたいわけではないし、するつもりでもないのだが、この3という数字は、人間がとりあえず頭に浮かべてしまう数字であるらしく、たびたび使用されている。小説を読んでいると、よく過去の出来事を回想するときに想起されやすいのが「三年前」という日付で、例えば「三年前のある日、僕は彼女を失った」という文章と「二年前のある日、僕は彼女を失った」という文章を対比させた場合、どちらかというと前者に「しっくり」来るのではなかろうか、と思う。もちろん物語上の時系列がある以上、「二年前」にその出来事があるならば致し方ないのだが。

 三という数字は三顧の礼などの言葉もあるように、度々であるとか数多くとかそういった意味も孕んでいる。だが、三という数字は人間が通常数えうる数なのではないか、とも思うわけで、たかだか三が、なぜ多と同義になるのか、と理解に苦しむ。例えば金井美恵子は映画や小説を視聴し、読んだ数を五回以下ならば正確に覚えているし、覚えて然るべきだとどこかのエッセイで書いていたと思うのだが(私こそ記憶力に乏しい)、よくよく考えると私もそれくらいならば――つまり五ならば――覚えている。

 けれども、実際問題として多として扱われうる数としては圧倒的に三が多い。先に回想を例に挙げたのだが、ここの例題だと人が亡くなっている。人が亡くなって三年という月日が、もしかすると人間にとってもっともしっくり来る時間なのかもしれない。

 三年だ。
 三年という歳月が僕をこの十一月の雨の夜に運びこんできたのだ。
村上春樹「双子と沈んだ大陸」(『パン屋再襲撃』所収、Kindle版文春文庫、以下Amazonストア パン屋再襲撃 (文春文庫)

  また私はこの具体的な記述から、これを書こうと思い立ったのだった。

 三年という歳月に伴う、何か人間の記憶力や想像力などの限界があるのではないかと思ったのだったが、実は私も自分の創作物を見返すとばっちり「三年」をモチーフにしたものがあり、タイトルもずばり「三年という月日の思い出」となっている。

 村上春樹の短編では、例えばその箇所が「二年」に変わっていたら、どのように目に映ったのだろうか。単に文字の構造、あるいは表象された漢字と見栄えの問題ないし音声的問題も孕んでいるのだろうか。「二年」は「にねん」であり、「三年」は「さんねん」だが、後者は「ん」が二度続いている。

 そのことで、「にねん」や「よねん」や「ごねん」よりも、「さんねん」の方がややもったいぶって聞こえる、ということなのだろうか。そのもったいぶっている感じが、書き手に「二年」や「四年」を選ばせず、「三年」を選ばせる原因となっているのだろうか(そしてもちろん「一年[いちねん]」も長い方に含まれている)。

 もしかすると英語の場合だと(こちらは何となく「~年後」とした)、「one year later」よりも「six months later」とかの方が語感的に長く感じられていたりするのだろうか。映画の中での時間経過について、あまり疑念を抱かずに観ていたためにサンプルがないのだが。