Outside

Something is better than nothing.

完成の水準

Perfect Hepatica Wallpaper

 金井美恵子のエッセイ・コレクションが2014年くらいから全四巻で刊行されていて、彼女の「目白雑録」シリーズが好きだったので購入してみて、ちまちまと読み進めている。けれどもまだ第一巻の『夜になっても遊びつづけろ (金井美恵子エッセイ・コレクション[1964−2013] 1 (全4巻))』さえ読み終えていない始末で、それでも多少は読み進めながら、金井はほとんどデビューしたときから「金井美恵子」だったのだということを感じる。

 もちろんある意味で「成人」すれば人間として完成しておくべきなのかもしれないのだし、作家としてデビューする以上、それ相応の完成が求められているのではないかと思わなくもないのだが、金井はかなり若いうちからデビューしていたはずであり、その長い作家生活の中で完成に至っているものとばかり思っていたので、「目白雑録」シリーズを読んでいたときと初期のエッセイを読んだとき、両方ともに「金井美恵子」だった、ということに驚きを覚えるのだった。

  翻って我が身を省みると、そういう完成の水準とはほど遠いところにいる。人間自体が(自動的に)ある完成の水準に至るのかどうかということには懐疑的な感も抱くのだが、けれども一応は教育の過程でそういうことになっているはず、なのであるのだから、私もまたある程度の完成の水準にまで機械的に達成していなければならない――のかもしれない。

 とはいえ、書き物の中で、さまざまなテクストが私自身を形作っているときに、その遍歴を辿っていくとまったく自分自身に至らない。もちろん歳を取るとまったく別人になってしまうという研究もあるくらいなのだから、たかだか十数年のスパンであっても人間が変化してしまうということについて自分としては説得力がある。

 しかしながら、この完成の水準というものは、作家という職業ゆえに達成されているものなのか、はたまた読み手の印象に過ぎないのかは分からないのだが、かなり驚くべきことなのではないのか。