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漢字の配置

letterpress

 今もって自分の書くものの中で、漢字をどう配置していくのか、ということについてよく悩む。昔は「すごい」という言葉についてはひらがなで書いて、「凄い」と漢字では書かなかった。けれども昨年くらいから漢字で書くようになって、この導入はかなり慎重に行ったのを覚えている。

 金原ひとみの作品をよく読んでいたときに、彼女の作品では「こと」が「事」と書かれていてかなり硬質な印象を受けたのに影響され、後に小説などでは私も真似したのだけれども、いつしかそう書くのに躊躇いを持つようになって止めてしまった。

 漢字をひらがなに開くべきなのかどうか、という一面的な議論をしたいわけではなく、漢字の配置にはパーソナリティが如実に出ている。あるいは、作中における語り手のパーソナリティが、というべきか。それは文法的な配置もそうだし、一文の長さにも当てはまるのだが、要するに文章というものは名文で目指されるものとは異なり、勝手気ままに書かれるものは多分に意識的だ、ということを言いたいわけで、その意識というものは指先に宿っているのだろうか。

 最近パソコンのキーボードで入力をしているときに、わざわざIMEATOKなどで変換をしなければならないことに面倒臭さを覚えるのだけれども、英語話者というか、アルファベット使用圏において、そういう変換の面倒臭さというものは感じないものなのだろうか、ということを考える。そこで問題になるのはもっぱら語彙についてということになって、変換の、例えば「芸術」なのか「藝術」とすべきなのかといった表記的な問題はどうなっているのだろうかと想像してしまい、羨ましいと思う。

 もちろん漢字の楽しみもあるし、白川静の講義本を今読んでいるので、それはそれで面白いとは思うのだが、それでもやっぱりこれは面倒臭いと思う。もちろん文章を書くにあたって問題になるのは単に漢字の表層的な字義に限らず、漢字が作り出すヴィジュアル的なリズムであったり、あるいは漢字の音読みや訓読みによる語のテンポだったり、見た目のインパクトだったり、さまざまな要素があって、総合性はあるのだけれども、たかだか「私」と書くべきか「わたし」と書くべきか、そういったことにかかずらうのは煩雑であると言えば煩雑だ。

 志賀直哉が戦後すぐに日本の公用語をフランス語にすべきだとか言っていて、それを知った当時は「何言ってんだこいつ」と思ったものだが、今考えると割といいことを言っていたのではないかと思う。

文字講話 I (平凡社ライブラリー)

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