Outside

Something is better than nothing.

『エクス・マキナ』(2015年)

  アレックス・ガーランドの『エクス・マキナ』を観る。

 ドーナル・グリーソン演じるケイレブは検索エンジン企業「ブルーブック」のプログラマだが、社内抽選でオスカー・アイザック演じる社長ネイサンの研究に参加する権利を得る。秘境というに相応しい自然豊かな山奥にネイサンの研究所があり、秘密保持契約にサインをしたあとに人工知能(AI)を研究しているということをケイレブは知らされる。アリシア・ヴィキャンデル演じるAIの「エヴァ」との対話を通して、チューリング・テスト(人工知能に知性があるかテストすること)を行うよう指示される。対話を通じて、異性としての好意を示してくる「エヴァ」にケイレブ自身も惹かれていくのだが、停電中、あらゆる監視が中断された瞬間に「エヴァ」がネイサンを善人ではないと告げたことから、ケイレブは実験に疑いを抱くようになる。施設には「言葉が分からない」と説明されたソノヤ・ミズノ演じるキョウコがいるが、彼女は何も喋らない。ネイサンの監視から逃れるために酒を飲ませて酔わせた隙に、ケイレブは彼がいくつものAIを搭載したアンドロイド(ガイノイド、女性型のアンドロイド)を作成しており、彼女たちは知性を持つゆえにネイサンを憎しみながら死んでいったことが分かる。ケイレブは実験が終わっていくにつれて「エヴァ」への同情を深めていき、やがてネイサンの施設のプログラムを弄り、停電時にすべてのドアがロックされる設定からオープンになる設定に変更する。「エヴァ」と示し合わせて逃げるために、だ。しかし予定していた通りにはならず、ネイサンに思いがけずAIに対して逃げるためにはケイレブを唆せと言われていたことを知るケイレブは、外に出た「エヴァ」が同じくAIだと判明したキョウコとともにネイサンを殺し、人間にしか思えない格好をしたまま外界に出て行く「エヴァ」を閉じ込められてしまったこともあり、見ていることしかできないのだった。

 先に述べておくが、私は本作に対しては否定的な感想を持っている。

 それを踏まえても撮影は美しいし、アンドロイドとして演技をする女優たちは美しいし、美術も悪くはない。

 けれども、なぜ男たちは女児監禁的な発想から抜け出すことができないのか?――ということを強く思った映画だった。

 そういえばと思い出したのが、以前に日本で人工知能学会が出した会誌に描かれた女性型のアンドロイドに批判が集まったことがあった。

www.huffingtonpost.jp

 この映画も同様、あるいはそれ以上のことを躊躇いもなく描いているわけであり、さらにはネイサンが説明するようにセクサロイドとしての機能も備えている。キョウコの存在はまさしくそういった機能とハウスキーピングの機能が混ざり合ったものである。個人的には彼女がネイサンとともに踊るシーンはあまり好ましい印象は抱けなかった。

 ケイレブは「エヴァ」に同情し(おそらくほのかな恋心さえ持っており)、最後には裏切られることになるのだが、それにしてもケイレブもまたネイサンの側にいたことは疑いようもない事実ではある。ネイサンは明らかに意図して女性型のアンドロイドを何体も作成しており、少なくとも彼女たちを人間と見なした場合に行っている行為は監禁である。

 もちろんAIに人権があるのかということについて、ここはまだ議論がきちんとなされていないところなのだろうとは思う。だが、少なくともこの映画におけるAIの扱いは、明らかに女性を意識したものであることは間違いなく、ケイレブが「AIをどうして灰色の箱にしなかったのか」という問いかけにネイサンはにべもなく突っぱねている程度に、人間の女性を意識している映画だった。

 キョウコの非人間的な美しさは、裏を返せば女性的な美を非人間的な部分でしか認めていない(人形美に近い何か?)というところに他ならないわけで、もちろんネイサンは殺されても文句は言えないところだが、この映画もまたそうなのではあるまいか。

 穿った見方をすれば、最終的に「エヴァ」が人間社会に溶け込んでいるシーンを、ややおぞましさをもって描いているように見えるところからも、女性の社会進出に対するやっかみを多分に含んではいないのだろうか。人間(「男たち」)の支配下にあるべきAI(女性)が、その支配を逃れて、好きな衣装(社会性)に身を包んでいるということに対して。

 そういったことを考えていると、『バイオハザード』(2002年)のAIレッドクイーンは、なぜ女児の姿をしているのか、なぜ女児の姿をしているAIが暴走し、人々を殺すという設定になっているのかというところについて考えざるをえず、まあ『バイオハザード』はそういった意味でいえばまだましな設定だったのかもしれないのだが『エクス・マキナ』はいったいどうなんだろうか、と思ってしまう。

 けれども、なぜ本作の人工知能という「神」の領域に入ると登場人物さえ述べているAIを扱う際に、多分に性別を意識したものを作ってしまうほどに人間は愚かなのか。アンドロギュヌスの神性というものを安易に思い出したりするのだが、「神」の領域に足を踏み入れるということならば、原始人間を作ったときには両性具有だったというわけでもあるのだから、いっそ両性具有のAIを作るべきではなかったのか――とか、そういうことを考えてしまう。