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Something is better than nothing.

『虐殺器官』(2017年)

虐殺器官 (1) (カドカワコミックス・エース)

虐殺器官 (1) (カドカワコミックス・エース)

 

   村瀬修功の『虐殺器官』を観る。

 クラヴィス・シェパード(中村悠一)はアメリカの特殊検索群i分遣隊として、サラエボで核爆発が起きた後、後進国発展途上国ともするべきだが以後この表記にする)で多発するようになった虐殺に対処している。世界はサラエボでの核爆発以後、自由をある程度犠牲にしてセキュリティーを買うようになった社会だった。あらゆる場所に認証が伴い、貨幣すら認証に変わっている先進国社会の外側で、必死に先進国に追いつこうとする後進国では虐殺が増加しつつあった。シェパードたちはその虐殺の背景にジョン・ポールというサラエボで妻子を失い、なおかつ爆発の最中に不倫をしていたという人物に突き当たる。ジョン・ポール(櫻井孝宏)は国家をクライアントとして後進国に潜り込み、そこで文化広報活動を行っており、彼の行く先々で虐殺が引き起こされていた。シェパードは、彼の愛人ルツィア・シュクロウポヴァ(小林沙苗)がいるチェコに赴き、彼女に接近する。彼女に連れられて認証を必要としないバーに行った帰り道に、「計数されざる者」という、あらゆる認証から自由になるための組織に捕まってしまう。その組織はジョン・ポールとつながっていた。ジョンは「虐殺文法」という、人間に本来備わっている良心にバイアスをかけることのできる言葉を用いて、各国に虐殺を引き起こしていることをシェパードに告げる。そしてその人間の言葉に関する器官に影響する言葉を吐いたあとジョンは姿を消す。「計数されざる者」に囚われていたシェパードは危ういところを同僚のウィリアムズ (三上哲)に救ってもらうものの、ジョンとルツィアの行方は分からない。その後、インドでジョン・ポールの情報があり、彼らを確保する。しかしながら民間軍事会社の陰謀により、シェパードたちが乗ったヘリが襲撃され撃墜され、そこでシェパードは自分たちと同じように痛覚マスキングや戦闘適応感情調整などの高度な処置が施された兵士たちと争う。シェパードは生き残るものの、ジョン・ポールはふたたび行方をくらます。アフリカのヴィクトリア湖にてジョン・ポールの行方を掴んだシェパードは、現地軍事勢力からの攻撃を受け、イントルード・ポットをフライングシーウィードから射出し、単身乗り込んでいく。館の中でルツィアとジョンに再会したシェパードは、ジョンが虐殺を起こす本当の目的を知る。それは愉快犯的なものでも、人間の醜悪さの証明でもなく、彼自身が愛する消費社会を、先進国社会を守るために、後進国の人々の意識が決して先進国に向かわないよう閉じ込めるためだった。虐殺文法を用い、彼ら同士で争うことでサラエボの悲劇を、敵意が先進国に及ぶことを繰り返さないようにする――それがジョンの目的だった。ジョンを連行としようとしたところ、密かに潜入していたウィリアムズによって彼女は殺害されてしまい、シェパードはジョンを連れて館を脱出する。そこでジョンはシェパードに虐殺の文法を託し、殺すように仄めかす。シェパードは彼を殺害し、法廷で虐殺文法を用いて、何があったのかを語るのだった。

 基本的に伊藤計劃の原作小説(2007年)については傑作だと思うし、この作品はそういった意味でいえば小説をかなり努力して映像化していると言っていい。オルタナと呼ばれ、コンタクトレンズや目薬のような形で視界を拡張する「ウェアラブルコンピューター」は、ほとんどそのまんまFPS(ファースト・パーソン・シューター)的なゲーム性を発揮していて、そのFPS=オルタナ現実の中で殺害される(子供を含む)人々の死に方は、それがアニメ作品ということもあって、いとも呆気なく頭蓋が爆破される。ルツィアも同じく。その呆気なさが、ひりひりとするようなリアリティを醸し出していたといえば、そういうことはできるだろう。

 また『メタルギアソリッド 4』(2008年)で登場していた無人兵器でなおかつ人工筋肉を搭載した兵器「月光」が、現地PMCを虐殺していたように、この映画の中でも無人兵器が人々を虐殺し、ドローンもまたそこら中に銃弾を放っていた。人工筋肉といえば、ミートプレーン(肉飛行機)という人工筋肉を活用し、鳥の翼のように羽ばたく旅客機が映画の中にどこか禍々しさを伴って登場していたことだし、そういうガジェット面での表現はけっこう好みである。

 ただ個人的にこの映画はやや冗長な嫌いがあると思う。原作を刈り込んでいって、この映画にまで落とし込んだということは素直に評価したいのだが、かといって原作同様に傑作だと評するには至らない。

 原作にあった母親関連のエピソード(死者の国)がそっくりカットされることで、どこかシェパードのモチベーションが分かりづらくなっており、また彼の内面がまったく分からないことによって、結末に至る法廷での虐殺文法の披露というものが、ジョン・ポールとの不思議な友情的な具合になってしまわないのだろうか、と思うのだった。原作ではたしか言葉によって母親を殺したということがシェパードにはのしかかっていると思うのだが、その言葉で人を殺すという反復が、映画では抜け落ちている。それは映画として『虐殺器官』を作り出すための戦略的なことだとは思うが、結果的にシェパードの行動に対して、原作を抜きにしても不可解な点が増えてしまった(ルツィアを失った自暴自棄のようにも見えなくはない)。

 これは個人的には微妙に思ったものの一つだが、他にも人によってはいくつかあるだろう。好みに思う部分もいくつかあるし、例えば照明の具合なども決して嫌いではない。館の中にランプがあって、その灯火具合はかなり好みで、また冒頭辺りの市街地での虐殺シーンもいいのだが、そこでの明るさもかなり好きである。焚き火の灯火具合もまた凄い来るものがある。シェパードがジョンを殺害するシークエンスはちょっと暗すぎたのではないかとも思うのだけれども。

 伊藤計劃の原作小説は非常に繊細だった。その繊細な手つきが、この小説を特定ジャンルに留まらない優れた作品にしているのだろうと思う。この映画もまた繊細な手つきで作られた作品ではあるが、その繊細さは伊藤計劃が表そうとしたものとは別の繊細さだった、ということになる。

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)