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Outside

Something is better than nothing.

『Thought』公開

告知
Thought

Thought

 

公開

 評論集『Thought』を公開しました。

 500円です。Kindle Unlimitedでも読めます。

目次

序「Introduction」
 序文
 ある感覚
第一部「Read」
 ゼロ年代小説考
 三つの視点――青山七恵『窓の灯』を巡って
 転倒の技法――太宰治「口紅」論
 認識の変容――太宰治「哄笑に至る」論
 壁の論理――安部公房『壁』について
 リハビリされた表現――大岡昇平『野火』について
 創造の回路――芥川龍之介「六の宮の姫君」について
第二部「Violence」
 都市伝説の暴力
 暴力と顔
 反としての暴力性
 批評の暴力について
 イメージの暴力
 二つの暴力表現
 転倒の暴力
 高さの暴力性
 回想は時に暴力を伴って
 隠された暴力
 暴力の作用
第三部「Impression」
 短篇小説について
 「私」の位置について
 詩という宇宙
 過去・現在・未来の編集
 不在の文字
 現在形と過去形
 過剰へのアプローチ
 振動の瞬間
 縦と横
 暴力という関係
 イメージの扱い
 流動と固定
第四部「Result」
 横光利一『紋章』について――登場人物の比較と語り手の検討

解説

評論集全体について

 評論集『Thought』は、2012年に完成した。

 それまで書いたエッセイをまとめたもので、最後にその集大成として第四部を配している。今まで小説を中心に作品集をまとめてきたのだが、いくつか書いてきたエッセイがある程度の分量になってきたので、そのために一つの評論集として編集することになった。

 当時を思い返すと、この編集作業は楽しいもので、第四部が最終的に『Thought』全体の基調を作ってくれて、そこを起点に一つのものとしてまとめられているような印象がある。

 主として文学作品と映画について書いているものだが、抽象的な事柄を扱っているものもある。序で書いたように、あくまで実践に至るためのプロセスとして書かれていることに留意していただければ幸いである。

第一部「Read」について

 第一部に収録されているものは、小説を読解していったものである。

「転倒の技法」と「認識の変容」については太宰治以前の、いわゆる習作期の作品を扱っているものだが、後者についてはかなり読解に苦しんだため、搦め手を使っている。評論全体がシンメトリー構造になっており、長音「ーー」について扱ったものだが、この二重性が評論構造自体に反復されていくところで、ある種の小説のようなものに仕上がった。個人的には内容のくだらなさと相まって、この第一部ではかなり好きな論の一つである。

ゼロ年代小説考」については、当時は同人誌の寄稿依頼を受けて執筆したものだが、今思い返すとあまり良いものには仕上がっていないように思う。ただ当時、横断的に小説を捉えていくということにハマっていた時期であり、読み返すと、2000年代について思い返すこともあったので残した。これは第三部に収録された「過剰へのアプローチ」と表裏の関係にある。

「三つの視点」と「壁の論理」については、個人的な読書会をしたときのレジュメである。後者については、例えば作品集『切断のための断片』に収録している「時間風」へと結実していく。

「リハビリされた表現」は第三部の「現在形と過去形」などの問題意識に繋がっていくのだが、ここで表したものは作品集『機械』に収録されている「Le Zozo」に結実していく。

「創造の回路」については、作品自体から延々と離れていく評論である。そのため、読解としてはどうなのか、という部分はあるのだが、これを書くことで見えてきたものもいくつかある。

第二部「Violence」について

 ここでは映画や小説の中にある「暴力」について検討したエッセイを収録している。

 どういった作用によって暴力性が発生していくのかというプロセスや、イメージに伴う暴力性とは何なのかといったことを考えている。

 個々のエッセイについて具体的に触れづらいので、ここでは全体感のみを示しておく。

第三部「Impression」について

 ここでは各種のエッセイを収録している。 いくつかのエッセイについて触れておこう。

「『私』の位置について」は、第四部の『紋章』論に先行する。語り手「私」というものは、一人称で物語る作品において、ほとんど常に前面に出ている存在ではあるが、しかしながら、横光が「純粋小説論」を経て『紋章』などで試した「四人称」というものは、この位置が極めてあやふやなものだった。四人称という言葉に踊らされてはならないのだが、けれどもこの一人称という当たり前のような語り方に対して、近代作家、あるいはある種の国民作家がどういう風に格闘していったのか、という軌跡が見て取れるのである。

「過剰へのアプローチ」は若書きの感が強いものであり、収録するときも相当悩んだのだが、けれども現在に繋がるアイディアの根底はここから出発しているものもいくつかあるため、収録している。「過剰」というワードを元にして、作品内の内在律について触れている。

「流動と固定」はカフカの「十一人の息子」という、きわめて短い小説について書いた論考である。まずもって「十一人の息子」とは、十人でもなければ十二人でもないというところを起点にしている。

第四部「Result」について

  ここでは横光利一の『紋章』という長編作品を取り扱っている。長編の論考ということだが、実は卒論である。卒論のバージョンは注釈をつけていたが、新しいバージョンにするときは注釈をすべて廃した。

 ここで「純粋小説論」を援用し、『紋章』読解に充てていくプロセスについては一定の留保が必要ではあるものの、あまりに魅力的な「四人称」という新たな語彙が、『紋章』と「純粋小説論」とを結びつけることとなった。

 ここで明らかにした「四人称」の方法については、拙作の中でもいくつか試してはいるものの、未だにうまくいっていない。『紋章』における四人称の作用というものは、この論文の中ではっきり結論しているが、今もって思うと、この手法については殊更「四人称」という語彙を与えなくても、現代の小説の中で多数実践されているものであろうと思う。

 個人的に横光の四人称の射程にあるのではないか、と思うのが、藤野可織の『爪と目 (新潮文庫)』で、この作品は二人称というところに着目されがちであるけれども、語り手はあくまで「私」である。この「私」の位置に着目されたい。