Outside

Something is better than nothing.

『沈黙』(2016年)

  マーティン・スコセッシの『沈黙』を観る。


映画『沈黙-サイレンス-』特別映像

 アンドリュー・ガーフィールド演じるセバスチャン・ロドリゴ神父は、アダム・ドライヴァー演じるフランシス・ガルペ神父とともに、師であるリーアム・ニーソン演じるクリストヴァン・フェレイラ神父が日本におけるキリスト教弾圧の結果、棄教したとの噂をポルトガル商人を経て聞きつけるので、事実を確かめるために中国を経由して日本に密入国する企てを起こす。中国で案内人として連れていくことにしたのは窪塚洋介演じるキチジローで、彼とともに日本上陸を果たした神父らは、隠れキリシタンの村に匿われ、彼らのために秘蹟(宗教行為)を行うのだった。またキチジローとともに島にあるキリシタンの集落にも訪れ、彼らのために秘蹟を行い、またキチジローが過去に踏み絵を踏んで生き延びた罪についての告白を受ける。そのときに彼は家族を見殺しにしたのだった。細々と村にて信仰生活を送る彼らの元に、ある日イッセー尾形演じる井上筑後守が配下を従えてやってくる。キリシタン狩りにやってくた彼らは、村の長を捕らえ、人質を求める。人質を出したはずの彼らに対して踏み絵を行い、あらかじめロドリゴが示していたように彼らはキリストを踏むのだったが、井上はさらにキリストの像に対し唾を吐きかけるように言い、あるいはマリアを淫売と呼ぶように求める。結局、彼らは自分たちの信仰を裏切ることはできなかった。村人たちは虐殺されることになる。このままでは見つかってしまうと、ロドリゴとガルペはそれぞれ分かれて逃げることになるが、道中ロドリゴはキチジローに売られてしまい、井上に捕まってしまう。長崎に連行されたロドリゴは、浅野忠信演じる通辞(通訳)に「転ぶ」ことを勧められる。これは棄教のことである。ロドリゴは「転ぶ」ことを頑なに拒否する。彼らの目的は人々を殺したところで心を挫くことができないので、それを教える宣教師を転ばせ、元を断とうとの考えだった。洗脳めいた説得は続けられるものの、ロドリゴが一向に転ばないため、井上と通辞によって、ガルぺを村人とともに海に沈めて殺し、ロドリゴのために死んだと詰る。また日本に来た目的であったフェレイラ神父を井上たちは呼びつけて、ロドリゴと再会させる。フェレイラは今では名を変え「日本人」として生きており、妻も娶っている。そのフェレイラに「転ぶ」ことを勧められ、ロドリゴは強く動揺する。しかし、なんとかそれを拒否した上で牢に戻るものの、逆さ吊りにして死を待つ人々の酷さや呻き声に耐えきれず、ついにロドリゴは「転ぶ」。そしてその後、フェレイラ同様に日本人の名を名乗り、キリスト教の侵入を防ぐため貿易品等を調べる仕事についたロドリゴは、フェレイラの死後、江戸に移る。そこにはキチジローもいたが、彼がある日、キリスト教に関連するものを持っていたことから殺されてしまうと、二度と信仰を口にすることはなくなる。そして彼は老い、死に至る。火葬に際して、ロドリゴの手に握られていたのは、かつて自分の作った小さな小さな十字架であった。

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 

  遠藤周作の原作は読んでいて、それはキリスト教の講義を取ったときに教授が触れていたからだった。そのときはキチジローについて、弱い者の宗教といった視点からキリスト教について語られており、非常に勉強となった次第だが、本作におけるキチジローもまた、信仰というものの複雑さを表してやまない。それを演じた窪塚洋介は粗野でありながらも繊細なキチジローを見事に演じていた。俳優たちはとてもいい仕事をしていたように思う。

 この映画の尺は三時間近くある。そんな長い時間が、はたしてこの映画に必要だったのかは分からないのだが、けれどもこれは一種の信仰告白に近い、映画を観る者の信仰を問うような、そんな物語ではないかと思うので、どことなく映画として優れているのかと問われれば、私はやや疑問が残る出来映えだった。

 遠藤周作キリスト教観の是非はここでは問わないし、私はそもそもキリスト教徒ではない。ただ信仰の持つ、非常に複雑なもの、この映画に展開されていたさまざまな困難が描き出したようなものがこの映画にはあり、無神経な無神論者の宗教観よりは尊いものが確実にあったのだろう、とは思う。

 そして、劇中にフェレイラの口から発せられた「日本は沼だ」という言は、たしかに沼であるとも思うのだし、私はその沼からさまざまな怨念がこもった手が伸びているおぞましい絵を思い浮かべるほどなのだが、同時にそれは『残穢』(2016年)で描かれたような、無底の穢れを備えているわけである。

 あと、私はキチジローの弱さが好きだ。好きという好意的な言葉では言い表せない複雑な思いがあるのだけれども、まるで自分自身の弱さのようだ。彼が最終的にどういう最期を迎えたのかは、明確な形で映画の中では触れられてはいないのだが、けれどもキチジローにとってキリスト教とは、あるいは信仰とは、つかず離れずのもの、抜きがたくそこに存在していたものだったのではないかと思う。どんなに惨めになっても、卑怯なことをしてしまっても、あるいは(例えば)イタリアのマフィアたちがどんなに残酷なことをしていても一方にはキリスト教的な価値観や信仰そのものを強く持っているのかもしれないくらいに、両義的な、矛盾する観念を持っている。キチジローは弱く、だからこそ何かに縋るようにして生きるしかなかった。私の想像でしかないのだけれども。

(2017年1月25日『沈黙―サイレンス―』から『沈黙』へタイトル訂正)