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Something is better than nothing.

『ヒューゴの不思議な発明』(2011年)

ヒューゴの不思議な発明 [DVD]

ヒューゴの不思議な発明 [DVD]

 

  マーティン・スコセッシの『ヒューゴの不思議な発明』を観る。

 エイサ・バターフィールド演じるヒューゴは、父親を博物館の火事で亡くし、叔父の元に引き取られる。パリのモンパルナス駅にて時計のねじ巻きを押しつけられ、アルコール中毒の叔父はどこかに失踪してしまう。仕方なくその生業をこなしながら、駅の売店から食べ物などをくすねているのだが、サシャ・バロン・コーエン演じる公安官はそれを捕らえようと躍起になっており、ヒューゴは捕まると孤児院に送られるため、戦々恐々としながら駅での隠れた生活を続けていた。ヒューゴには成し遂げたいことがあり、それは父親とともに行っていた機械人形の修復だった。修復のためにベン・キングズレー演じるおもちゃ屋の主人の軒先からゼンマイ仕掛けの玩具を盗み出すヒューゴだったが、ある日、彼に捕まってしまう。父親の記した機械人形を修復するためのノートを奪われてしまったヒューゴは、なんとか取り戻そうと主人の家に赴く。家には入ることができず、代わりにクロエ・グレース・モレッツ演じる義理の娘のイザベルと知り合い、手帳の件を託すことになる。翌日、主人からその手帳は燃やしたと灰を渡され、ヒューゴは絶望するが、イザベルに手帳はまだ燃やされていないと告げられ、主人ことパパ・ジョルジュに手帳を取り返す交渉を行う。すると、おもちゃ屋で働くことになり、手帳を返してもらえる算段がつく。イザベルとも仲良くなり、本の虫の彼女が映画をまだ観たことがないと言うので映画を観に行ったり、逆に彼女の行きつけの書店に行ったりと付き合いを深めていく中、ある日、彼女が機械人形の最後のパーツと睨んでいたハート型の鍵をペンダントとして身につけていることにヒューゴは気づく。それを借り受けて機械人形に当てはめると人形が動き始め、何事かを描き始めるのだが、一度は動きを止めてしまったと勘違いしたヒューゴは慟哭するが、実際には月に銃弾が撃ち込まれたような絵が描かれた。そして、そこに書かれた書名はジョルジュ・メリエス。パパ・ジョルジュの名前だった。イザベルとともに、ヘレン・マックロリー演じるママ・ジャンヌ(ジュアンヌ・ダルシー)の「協力」も得つつ、ジョルジュの過去に迫ろうとし、タンスに隠されていたいくつかの絵の中から、ヒューゴたちはあの月の絵を見つける。しかし、それがジョルジュにばれてしまい、彼は隠したい過去に出会って失意に落ちる。ヒューゴは書店の主人の助言を受け映画アカデミーの資料室へ行き、そこでジョルジュがかつて映画監督として名を馳せたことをマイケル・スタールバーグ演じる映画批評家(?)ルネ・タバールに教わる。彼はメリエスの『月世界旅行』のフィルムを保管しており、彼とともにジョルジュ宅を訪れ、上映会を行う。メリエスは体調を崩していたが映写機の音を忘れるはずがないと、彼らのささやかな上映会に参加し、メリエス黄金時代を語り始める。彼はまずマジシャンからキャリアを出発させた。そしてたまたま旅芸人の興業を観に行った折に映画に出会い、それに魅せられる。彼自身、私財をなげうって、映画撮影に臨み、多くの作品を作り上げた。しかし第一次大戦後、過酷な経験をした兵士たちを始め、人々の嗜好が変わり、魔法のような世界観は受けなくなってしまった。やがて経営に行き詰まり、フィルムはハイヒールのかかとの部分に溶かされ、彼自身もそのお金でおもちゃ屋の主人になるのだった。機械人形だけが残り、面白いものをと博物館に寄付した、とメリエスは語る。ヒューゴは機械人形を駅に取りに戻り、公安官とも一悶着があり、ヒューゴは公安官に捕まってしまう。しかし、孤児院に送られそうになったところを、この子は自分の子だとメリエスが叫び、一件落着する。メリエスはその後、見つかったフィルムを元にして上映会を行い、ふたたび自信を取り戻すのだった。

 映画のための映画という作品はたぶんいくつかあるのだろうが、個人的に感じられたのは『ニュー・シネマ・パラダイス』(1988年)の系譜に連なろうとした作品なのではないかと思う。視聴すると分かるように、一種の簡易映画史という作品にもなっていて、細かい撮影技法などは私は分からないにしても、おそらくいくつかの点で映画史の撮影技法の発展をなぞっている。

 とりわけ興味深かったところは列車の到着を映した最初期のリュミエール兄弟の「映画」が劇中で「反復」されることで、2回反復されている。まず列車の到着自体が映し出され、その後ヒューゴの夢の中で反復され、最後に公安官との一悶着の最中に夢の反復と同時に列車の到着がもういちど反復される。ここは面白いし、おそらく多くの人が着目している点だろうと思う。


ラ・シオタ駅への列車の到着(L'arrivée d'un train en gare de La Ciotat)

 列車の到着は劇中でも語られているように、当時の人々にとって現実そのものだった。画面に向かって手前側にやってくる列車を、当時の人々はリアルなものとして捉え、驚いた。そのフィルムの中のフィクションをリアルなものとして捉えた当時の人々になぞらえて、夢の中でのヒューゴは列車の到着を自分自身を轢くものとして捉えていき、その驚きは夢というフィクションにいったんは回収されていく。けれども、最終的にそれは公安官との悶着の中で、現実化していくことになる(2Dで観ているのであれだが、おそらく3D視聴の場合だとよりその「現実化」の過程ははっきりしているのではないか)

 なぜこれが三度繰り返されたのかという点については、おそらくこの作品の構成に関わることで、例えばヒューゴが初めて機械人形をイザベルの鍵によって動かしたとき、一度は落胆している。その後、メリエスの『月世界旅行』のワンシーンを描いて歓喜することになるのだが、このシークエンス自体もまた反復されているのだ(例えば公安官の下りも反復されている)。

 個人的な信仰告白として、映画というものは反復の映像だと考えている。まずあるシーンがあって、そのあとに同様のシーンが映し出され、最初の意味が上書きされる。分かりやすいものでいえばデヴィッド・フィンチャーの『ゴーン・ガール』(2014年)の冒頭と結末のロザムンド・パイク演じるエイミーの眼差しで、これは初めと最後で意味が反転してしまっている。大小、長短はあるにしても、この反復こそが映画を映画たらしめていく文法だ。

ヒューゴの不思議な発明』も、細々としたものを挙げればきりがないのだが、さまざまな反復に満ちている作品であり、映画への愛に溢れた作品だと言っていい。

 傑作である。


『月世界旅行』"Le Voyage dans la Lune / A Trip to the Moon/Viaje a la Luna"(1902)