Outside

Something is better than nothing.

『逃げるは恥だが役に立つ』(2016年)

 TBSドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』を観る。原作は未読。

流れ

 新垣結衣演じる森山みくり(25歳)は院卒だが「小賢しさ」が疎まれ、派遣切りに遭うなど人生があまりうまくいっていない。星野源演じる津崎平匡(35歳)は「プロの独身」を自称し、結婚を必要としない生活を送っている。

 みくりは失職中に両親から家事代行業を紹介され、津崎の下で働くことになる。そこでみくりは的確な指示を出す津崎の人柄に馴染んでいき、みくりの両親が退職をきっかけに田舎に引っ越すことになった際に、津崎の家で暮らすために「契約結婚」を切り出すことになる。

 その「契約結婚」は家事代行を基本とした、夫を雇用主、妻を従業員とする関係で、給料は19万4千円。津崎としても戦略的な婚姻関係(実際は事実婚)は合理的であると判断し、「小賢しい」みくりは津崎と事実婚状態に入る。

感想

 これがあらすじなのだが、放送以来、「恋ダンス」を始め、さまざまな取り上げ方をされてきた。もちろんこのドラマが扱った「契約結婚」という、従来の結婚とは異なるあり方についての興味もあっただろう。

 新垣結衣が踊る「恋ダンス」の魅力からこのドラマを視聴し始めた私ではあったのだが、だんだんとドラマで扱う事象が気になるようになってきて、いろいろと考えさせられることも多かったドラマだった。

 ドラマ自体は妻と一緒にキャーキャー言いながら毎回楽しみにさせてもらった。非常に素晴らしい作品だと思う。

 さて、以下からは各見出しに沿って感想を述べていきたい。

「アクセサリー」としての女性――風見について

 まず一つは「シェア」である。

 これは大谷亮平演じる風見涼太が述べた言葉で、彼は津崎の同僚。その彼が2人の「契約結婚」を看破した回がある。そこで風見が「契約結婚」を黙っていることを条件に津崎に提案したのが、みくりの「シェア」だった。

 この「シェア」という響きが私は気にかかって仕方なかった。けれども、その引っかかりとは別に、ドラマ自体は進んでいく。

 みくりはそのときに歯医者にかかっており、治療費捻出のために風見宅での家事代行を承諾することになった。

 その引っかかりは、風見がいわゆる「モテる」というところに起因するのではないかと思う。結婚否定論者である風見は、女性との付き合いをかなり刹那的に捉えているきらいがある。ドラマ冒頭での風見初登場シーンは、たしか女性を一方的にふるところだったと思う。風見がみくりに惹かれるという描写もあったものの、風見の基本的な女性観は「アクセサリー」に近いものだったに違いない。

 その彼が、みくりを「シェア」と言う。あくまで「家事代行業者」の労働時間をシェアするという形を取りながら、「女性としてのみくり」を「シェア」しようとする風見の女性観が如実に表れている箇所だろうと思う。

 彼にとってあくまで女性は「アクセサリー」であり、ゆえに「シェア」できる対象としてあった、と。

 この女性観自体は、明確な形ではないにしても、みくりの伯母である石田ゆり子演じる土屋百合との関係の中で変化していくようには感じられる。時間的制約があったのかもしれないのだが、最初、かなり嫌悪感があった風見というキャラクターは、百合との関係において相当に変化するようにドラマは進行していた。

「小賢しい女」の生きづらさ――みくりについて

 森山みくりというキャラクターは非常に面白い存在である。

 それなりに合理的なのだが、その合理性は自分自身の恋愛の失敗や仕事の失敗に紐づいており、それは「小賢しい」というものだ。この「小賢しさ」が随所にみくりの足を引っ張ることになる。

 彼女の合理性は、かなりフラットな環境を前提にしている。彼女の思考や行動は理に適っていることが多いが、それ以上に社会におけるジェンダーが彼女を縛ってもいる。

 女性はこうしなければならない、女性はこうあらなければならないといったジェンダーが、彼女の合理性を阻んでいるのだ。

 彼女の「小賢しさ」は、最終回で津崎が言うように実際はさほど小賢しくないものなのかもしれない。それは津崎が相当にフラットな捉え方をしているからであり、突然の申し出である「契約結婚」に応じるくらいに柔軟性を持つからであるが、そのフラットな捉え方を社会は共有しているわけではない。

 津崎とみくりとの結婚関係を最初に発表するところもコメディタッチで描かれているが、かなりステレオタイプな価値観に囚われてもいるし、土屋百合のぶつかる壁も従来のジェンダーに則ったものであるし、その彼女の持つ結婚観も従来のステレオタイプに則ったものである。

 みくりは自分の「小賢しさ」が、社会とぶつかるたびに自尊感情を低くしていくことになる。

「プロの独身」の影にあるもの――津崎について

 自尊感情が低いのは私の方だ、と最終回辺りに気づくみくりだが、それより前に津崎は自尊感情が低いとみくりに見なされる。

「プロの独身」と本人は述べているが、女性経験のなさが彼にとって一つの大きな弱点として存在している。男性としてのジェンダーが「女性を性的にリードしなければならない」という呪縛として、彼にのしかかってくることになる。

 みくりと津崎の性交渉は、そのため何度も行ったり来たりを繰り返す。みくりが最初に性交渉を誘うが、彼は拒否してしまう。その後、2人の気持ちを確かめ合ったあとでの性交渉も、いったんは逃げ出してしまう。

 彼の自尊感情の低さは、ドラマを観る限りはもっぱら性的な事柄に起因しているように思われる。

 そういった意味では、津崎は既存のジェンダーの枠組みに囚われているようにも思われる。だが、彼の持つ合理性はそのジェンダーを担いつつも、「契約結婚」や「小賢しい女」であるみくりを受け入れる余地がある。

自尊感情の低い2人――個別具体的な結婚

 私は映画監督であるデヴィッド・リンチが好きなのだが、彼の著書の中にこういう言葉がある。

映画というのは、ある特定の人物についてのストーリーだし、ある特定の場所で起きた出来事を描いているだけなんだから。
デイヴィッド・リンチ 改訂増補版 (映画作家が自身を語る)、P.226)

 これはドラマだが、このリンチの言葉のように『逃げるは恥だが役に立つ』というドラマはある特定の人物についてのストーリーであるし、ある特定の場所で起きた出来事であると思う。

 だから、この作品を「新しい結婚のあり方を描いた作品」だと言いたいわけではないし、「格上の男性と対等な結婚がしたい」というものでもないと思う。結婚にしろパートナーにしろ、今では(おそらく昔も)個別具体的なあり方であり、この津崎・みくりの2人もまた個別具体的な結婚のあり方を探ったに過ぎない。

 ただ、これは作品のあり方に起因するようにも思われる。例えば広く社会に問う、といった問題作のような作られ方をしたものの場合、それは社会との関係をより強い形で見出さざるをえないように思われる。

 ただ、この作品の場合、私はかなり具体的なパートナーのあり方のように感じられた。「自尊感情の低さ」に起因する2人の「普通じゃない」行動(コメディタッチで描かれることの多かった2人のやりとりや、みくりの妄想など)は関係性を作り上げるための過程だった。それぞれ「小賢しい女」「プロの独身(女性経験のなさ)」という問題を抱えている2人が、ぶつかり合いながら2人の適切なあり方を見出していく。

 みくりは津崎に最初にプロポーズされたときに、「好きの搾取だ」と述べた。津崎が転職をきっかけにみくりとの雇用関係を解消し、専業主婦として家に入ることを提案したが、その「無償労働」に対し、みくりが「好きの搾取」と述べたのである。その後に、2人は夫婦関係を会社に見立て、結婚を共同経営として捉え直していく。

 当初の雇用主と従業員という上下関係を前提とした関係性ではなく、対等な関係として再定義する。このことによって、みくりは「小賢しい女」としての自尊感情の低さを、共同経営責任者という対等なあり方の中で発展解消していき、津崎は「女性経験のなさ(に裏打ちされた男性としてのジェンダー」を対等なあり方の中で解消できる。

生きていくのって面倒臭いんです。それはひとりでも、ふたりでも同じで、それぞれ別の面倒臭さがあって、どっちにしても面倒臭いんだったら、一緒にいるのも手じゃないんじゃないでしょうか。
(…)
世間の常識からしたら、僕たちは最初から普通じゃなかった。

 これはその後、風呂場で落ち込むみくりに津崎が投げかける言葉だが、「普通じゃない」2人が、折り合いをつけていく過程がこのドラマなのではないか。

 互いの持つ自分自身の面倒臭さを、それぞれぶつけ合いながら、やがて受け入れる素地を作っていく。その過程で、津崎は以前よりも社交性を獲得したようにも思う。みくりは自分の「小賢しさ」を商店街の祭りで充分に活かすことに成功する。

 大団円を迎えるこのドラマの行き着く先は、それぞれの関係性が、双方の納得において成立するという、個別具体的な関係性の探り方である。