Outside

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童貞に囚われること

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出会わなかったこと

 出会わなかった以上、致し方ないといえばそうなのだが、先日に見かけた雨宮まみの死というものは、誰かが死んだとしか反応することができず、当人を何らかの形で知らなかった以上はそれで終わるはずだったのだが、さまざまなところで反応を見かけたために、なんとなくその名前は印象に残った。

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 そういう出会いはあると思う。もちろん幸福な出会いというものは当人が生きている間に出会う、というものなのかもしれない。ただそれはあくまで身体を持った生身の人間の話であり、小説やエッセイなどに書かれたテクストに関して言えば、ある意味で出会ったその瞬間から作者は死んでいる。

 私たちが古典として出会う作品は、ほぼすべて肉体を持つものとしての作者は死んでいるのだが、かといってそれが作品に何らかの影響を及ぼすことはない。生きていたらこういう作品が読めたかもしれない、といった期待は抱くにせよ。

 前置きが長くなってしまったが、Kindle Unlimitedで雨宮まみの『女子をこじらせて』が読めたので、ダウンロードして読んだのだった(以下、引用時はKindleの位置Noを記す)

女子をこじらせて (幻冬舎文庫)

女子をこじらせて (幻冬舎文庫)

 

反復の効果

  前述の通り、雨宮まみの書いたものを読んだのは初めてのことだった。タイトルである『女子をこじらせて』から連想した内容は、軽妙なエッセイという印象だった。だが、実際に読んでみた印象はかなり異なっていた。これは雨宮まみという人間の性にまつわるライフヒストリーなのだ、と。

 この本の特徴的なところは、後に久保ミツロウとの対談の中でも触れられているのだが、自分の性についての原点を確認するために何度も繰り返し同様のことを述べている点だろう。人によっては冗長に感じられる部分だが、この繰り返しを読んでいるとだんだん身につまされてくる。

 成長とともに、何らかの形で折り合いをつけていく性というものが、雨宮にとっては常に自分の人生にある屈折をもたらすものとしてあり続けた。この繰り返しはそのような印象を受ける。

「普通の女のコ」とは

 雨宮が自分の性に苦しんだ理由は、本書で再三にわたって触れられているように、自分自身の持つ女性へのイメージに起因するものだ。

「大人の色っぽい女の人」も完全に他人というか、自分とは異人種みたいな感覚で、自分がいずれそうなると思っていたわけでもなかった(位置No.116)

 と幼少期に思っていた雨宮は、

あくまで大人の女の人は他人、エロいのは大人の女の人、自分は子どもから関係ねー!というスタンス(同)

 を作り上げる。

「自分は普通の女のコなんだ、と思ってい」(位置No.136)た彼女は、中学生になったときに、状況が変わる。

 その感覚[「普通の女のコ」という感覚]が揺らぎ始めたのが中学生のときでした。小学校では誰が美人とかかわいいとか、そんなことは大した問題じゃなかったのに、中学に入るや否や外から「美人判定」「カワイイ判定」「ブス判定」をされるようになったのです。そしてそれが女子の間での力関係にも影響してくる。その「見た目判定」の中には、「髪をうまくカーラーやコテで巻けるか」「色つきリップをいい感じに塗れるか」「スカート丈をいかにうまく改造できるか」などの「女子力検定」に近い項目も入っていて、髪をうまく巻けないどころかくせっ毛で髪がはねてて、そのうえ思春期でにきびだらけになってしまった私は、もう完全に脱落してしまいました。「自分は普通の女のコ」ではなく「普通未満の女のコ」だと、気づかざるを得なかったのです。学校内での私の立ち位置は、男子の中でも女子の中でも「下層」。マジで「パン買ってこい」とか言われてました。(位置No.140、[]内及び太字は引用者)

 外見上の評価を内面化してしまった彼女は、その後「道化」のような、性別から離れた役割を演じるようになる。

 私は、女であることに自信はなかったけれど、決して「男になりたい」わけではなかったし、できることなら自分もAV女優みたいにキレイでやらしくて男の心を虜にするような存在になりたかった。(位置No.78、太字は引用者)

 けれども雨宮は決して自分の女性性を放棄したかったわけではなく、とりわけ中学生時代に貼られたレッテルが尾を引いた結果、女性性という舞台に上がるための資格を持っていないと思い込まされた/思い込んだのである。そしてその舞台への憧憬が、こじらせとして彼女の人生に大きな影響を与えることになる。

男性について

 この雨宮の女性観は、べつだん特殊なものではない。社会的に規定された男女の区別、つまりジェンダーが彼女の女性観に大きな影響を与えているし、相対的に雨宮の男性観も浮き彫りになっていると言えるだろう。

「AV女優みたいにキレイでやらしくて男の心を虜にするような存在」という女性観は、無意識のうちに男性にある種の特権性を前提にしているようにも思われる。

 雨宮の女子/処女をこじらせるの裏返しで、男性には童貞をこじらせるという状態があるが、これは「特権的な男性」像を内面化してしまった結果、こじらせてしまうのだと思われる。

 この「特権的な男性」像については、今ではかなり緩和されているのではないかという感を個人的には覚える。大きく言ってしまえば全体的なジェンダーバランス改善の過渡期にある現代において、少なくとも男性の意識は必ずしもそれまでの特権性を前提としたものにはなっていないように思われるからだ。

 けれども世代間に大きく象徴される意識差は残っており、例えば会社組織における「社会人」像の中には、かなり旧態依然とした性区別を前提としていることも多いだろう。もちろんポリティカル・コレクトネスやコンプライアンスに多少は配慮した結果、誇示していないにしても。

 仕事をしていると、男性だからという暗黙の前提の上で仕事の割り振りを受ける場合が多く、先日転職サイトを見ていると、そういった性別による仕事の割り振りが前提化された求人をいくつか見た。

 またアンケートなどを見ると、最大公約数的な制限からだろうが、家事労働者の欄には「主婦」としかなく、「主夫」の項目がなかったりもする。配偶者のある男性で、就職しておらず家事労働をしている者はその場合どうするのだろうと思ったものだ。

折り合い

 ある性に生まれてきたことと社会的な言説との相違に違和感を覚えることも多いだろう。ある性を元にして社会的な折衝が生じ、レッテルが貼られることによって、実際との相違に苦しむことになる。決して妥協という意味ではないのだが、性との向き合い方についてはどこかで折り合いをつけなければならない。あるいは、覚悟といってもいいのかもしれないのだが。

 こじらせるという状態は、その折り合うべき性に関して、向けられる視線を過度に意識してしまったときに発生するのだと私は考えている。

 私が童貞だった頃、女性からの視線を非常に意識していた。そもそも話すことすらままならないわけだが、それは他人(女性)の視線を過剰に意識してしまうからだ。そして、その視線は自意識の裏返しでもある。

「俺は童貞だ」という自意識が、いつの間にか「自分の立ち居振る舞いはおかしくないだろうか?」というものに転じ、女性の仕草の一つ一つに過剰な意味づけを行ってしまう。

 よくよく考えると、他人(女性)と書いたが、もちろんこれは同性である男性からの視線も含まれるわけで、おそらくは自分よりも先に女性経験をした相手に対する嫉妬と羨望であるのと同時に、自分が未経験だとばれやしないかという羞恥心がそこにはあった。

 そうした自意識がとりわけ性に強くコミットした結果、暴走や自滅、あるいは黒歴史を生み出す源泉となり、常態化するとこじらせていることになる。

征服のためのセックス?

 ジョセフ・ゴードン=レヴィットが監督と主演を務めた『ドン・ジョン』(2013年)という映画がある。

 映画の中ではジョセフ・ゴードン=レヴィット演じるドン・ジョンがさまざまな女性とセックスをしまくっている。だから性的に満足しているのかと思いきや、どんな美女とセックスしてもオナニーの方が気持ちいいという状態にドン・ジョンは陥ってしまっている。

 理由はドン・ジョンのポルノ好きによるものだ。(劇中の)ポルノは一方的で征服的な、いわゆる男性の特権性を前提としたセックスが描かれており、それに影響を受けているドン・ジョンは女性を征服したくてたまらない。

 けれども、そういうフィクションとしてのポルノを現実で実現できるはずもなく、彼はどんな美女とセックスをしても満足できなくなってしまっているのだった。

 話はそこで終わることなく、ドン・ジョンは後にジュリアン・ムーア演じる年上の女性に出会い、即物的なセックスではなく、愛し合う2人で作り上げていく、言わばコミュニケーションとしてのセックスのあり方を学んでいく。

ドン・ジョン [DVD]

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こじらせたその後

  ドン・ジョンの当初抱いていたセックス観に近いものが、おそらく童貞だった頃の私の焦燥に密接に関わっており、雨宮は本の中で大人の女性を「AV女優みたいにキレイでやらしくて男の心を虜にするような存在」といった風に捉えていたが、そういった女性を「征服する者」といった男性のイメージを童貞の私は抱えていたことになる。

 そのイメージが内面化されてしまうと、男性性と女性性(男性観と女性観)は根深い部分で影響を受けてしまうことになる。

 雨宮は自分の女性性に自信がなく、処女を卒業した辺りから、自分を女性として扱ってくれる男性に対して、尽くすようになってしまう。自分の女性性に自信がないあまり、男性の無碍で自分勝手な振る舞いに従順になってしまったのだ。

 人間は男性や女性である前に単に人間であり、人間性というものを持つわけだが、雨宮は自分の女性観に引っ張られすぎた結果として、男性への従属を選んでしまう。男性に従属すること(この場合はセックス)によって、おそらく雨宮は自分を女性として強く認識できていたのだろう。けれども、そうすることによって人間性の部分に著しい悪影響が生じてしまった。

 童貞をこじらせた場合、男性性にコミットするために女性を低く見積もる傾向にあると思われる。男性性を征服者というイメージで捉えているからで、これを内面化させてしまった場合には雨宮のケース同様にこじらせてしまう。

対処法はあるのか

 このこじらせ状態は、単に童貞/処女を卒業するという方法では逃れることはできない。『ドン・ジョン』では、もちろん童貞をこじらせているわけではないのだが、男子をこじらせるみたいな状態にはなっている。ドン・ジョンは征服的なイメージを抱き続けた結果として、欲求不満な状態になっていった。

 童貞/処女を卒業したところで、まるで夢から覚めるようにこじらせから解放されるわけではない。雨宮がそうであったように、余計に酷い状態に陥る可能性もある。

 では、どうすればいいのだろうか。

 私も未だに童貞をこじらせているような気がする。もちろん全面的にこじらせているというわけではなくて、いくぶんかは緩和されたものの、根底には一方的な男性観や女性観が残っているように感じられる。

 人それぞれにこじらせの対処法はあり、一概に言えないところが難しいところなのだが、最後に雨宮の本から引用したい。

 こういうことをしたらこう思われる、こういうことをしたら誤解される、こういうことを書いたらイタイ人と思われる、そうやって自分をがんじがらめにしていた「自分の中にある他者の視線」を、やっと振り切れた気持ちになりました。他者の視線はもういい。客観視するのはもういい。もうさんざんやったじゃないか。さんざんやって、上手くいったことがあったか? 結局、客観視している自分の意見と、内側から出てくる「これをやりたい」という欲望のバランスが取れなくて、いたずらに苦しんだだけじゃなかったか。あふれ出るような快感や楽しみを不必要に我慢しただけじゃなかったか。自分で自分をコントロールして上手くやれると思っていたこと自体が思い上がりで、ぜんぜん上手くできていなかったじゃないか。自分は、そんなに取り返しのつかないひどいことをしたか? 仮に本当にそれがひどい失敗だったとして、失敗したからとさらに縮こまって、誰からも非難されないような文章を目指して、自分の文章の「非難されそうな箇所」を執拗に添削し続けるのか?
 欠点を直そうと思うのは向上心かもしれませんが、自分が自分である根本を欠点として否定し、それを直そうとしたり隠そうとしたりするのは、ただ歪みを生むだけでなく、長所までも削り取ってしまうものだと思います。添削して欠点を取り除いた文章に、私の長所は果たしてあるのだろうか。そして、そんなことをすることに、喜びはあるのだろうか。(位置No.2221-2230、太字は引用者) 

  ライターとしての雨宮の宣言のようなものなのだが、ここには多くのヒントが隠されていると個人的には思う。童貞にしろ処女にしろ、こじらせという状態は自己否定の変形であり、この根本を否定したまま、別個の自分になろうと思ったところでうまくいかないのではないか。

「自分の中にある他者の視線」から自在になったときに、おそらく本来の人間性を取り戻すことができるのではないか。

 

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  大きく言えば本記事は「恋愛」に関係するもの。システマティックな恋愛における自分自身のあり方というものは、本記事で取り上げたような男性観と女性観の支配下にあり、その元で非モテとかアラサーとか未婚とかが語られているわけであるのだが、果たして本当にその状態でいいのだろうか、と思わなくもない。

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