Outside

Something is better than nothing.

煙の生

Smoke

 法事のために帰省したということはつまりそれは宗教行為を行うということに他ならない。私の母方の親戚連中は基本的には宗教心が強く、自分でお経を上げたりできる人も多いし、お寺に修行したりした伯父もいるし、墓参りもけっこう頻繁に行っていたようにも思う。私自身も、高校生くらいまでは抵抗はあったが、それ以降について言えばさほど抵抗感はなく、そういう様を見ていると、テンプレート的な「日本人は無宗教」というものが、ここでは当てはまらないなあと思ったりもするのだった。

 思えば大学でキリスト教についての講義を取っているときに、私は目から鱗が落ちたのを覚えている。先生はそのときに、母親が子の健康を祈るためにお百度参りをするでしょう、あれが洗礼なんですよ、みたいなことを仰っていて、それまでキリスト教を毛嫌いしていた私は聖書を手に取るくらいにまではなったのだった。

 この体験以降、宗教についての抵抗感はなくなったのだが、だからといって私自身は何かを強く信じているというわけでもない。ただ、自分のことや家族のことを祈るという、ささやかな庶民的行為が宗教に根ざしているということに自覚的になっただけで、死者の冥福を祈るために法事を行うのも、先祖から代々、連綿と続いてきた奇跡的な所業の結果としてある自分の「今ここ」の再確認という気さえする。

 この法事は具体的には祖父の七回忌だが、この祖父がいなかったら私は存在していないわけであり、そこには第二次大戦という大きなファクターが挟まれているが日常の細やかな危機の連続をくぐり抜けた結果としても、ある。

 法事中に坊主が経を上げているときに焼香したときの、あの煙のゆらめきの中に、祖父の生というものが立ち上がってきて空間を満たし、記憶のさまざまな喚起とともにやがて死後の身体とでも言うべき墓に参るわけだが、そのときに私が感じるのは死は生の限定であるのだということで、そうであるがゆえに人は死なないのかもしれない、ということだった。

 その後に親戚との宴会があって、そこで語られる祖父の思い出や事あるごとに思い返される祖父の記憶(例えば犬との散歩の仕方)が、死=無という短絡を遠ざける。もちろん自分自身の我というものの消失を考えたときに、私は真っ暗闇の、その「暗さ」すら知覚できない無を想像して非常に怖い思いをするのだが、しかしそういうことではないところに死はおそらくあり、人の生というものはどこかに残っているのだろうとも思うのだった。

 

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