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地元で見たいくつかの顔の印象

Country

 地元に帰ると、ふだんは東京で生活しているためなのか、いろいろと発見が多い。

 私が今回、もっとも印象に残ったのはそこで生活する人々の顔で、これは私の主観かもしれないのだが、彼らはおおむね大人びて見えた。

 同年代か、それより下の世代の男性の表情もまた、一様に厳しさを帯びていた印象で、これは老けているということではない。

 地元はやはり何かにつけ人付き合いが多く、地元コミュニティの連綿と続く人間関係も濃いだろうし、小中高での付き合いもまた続く。これが煩わしくて、東京に逃げたい/憧れる人も多いだろうが、そこで成長すれば思いのほか逞しくなっている。

 私は嫌なことがあれば立ち向かうことは極力避けて、拒否しようとするタイプなので成長はほとんどしていなくてアラサーになってから焦り始めているのだけれども、それはともかくとして、彼らは煩わしさの中で生きる覚悟をした顔をしていた。

 人間の顔というものは一つの物語といっても過言ではない、さまざまなものを私たちに伝え、ビジュアル的な美醜だけではない何かがある。

 例えば顔の欠損というものは単純な傷以上に大きな何かがそこにはあるし、人の顔の記憶というものもそれが顔であるからこそ大いに記憶にこびりつくのだろうと思う(近代以前には身体や裸の記憶、というものもあったという話も聞いたことはあるのだが)。

 私が東京で会った何人かの大人たちは、年配の方を除いて同年代くらいの人間はおおむね幼さを残していた。とりわけ私の観測範囲が狭かったということも考えられるし、都の水で磨かれているかもしれないし、その他の要因はあるのだろうが、それにしても地元の人々の精神的な落ち着きや諦観の深さは驚くべきことである。

 この辺りで私は根無し草という言葉を思い出した。

 東京を彷徨い続けるほど彷徨ってはいないのだが、けれどもそこでの人間関係は別に自分の何にも関係しないことが多いわけであり、地元コミュニティでのヒエラルキーを前提にした人間関係とは違い、私の培ってきたコミュニケーションとはまったく軽薄なものであったのだ。

 この軽薄さが地に足をつけずにいられるための前提を作り出したのだろうとひとまずは結論してみる。その面倒臭いコミュニティーで生きることの覚悟が、人の顔に大きな相違を生み出したのだ、と。

 かくして、都会に戻った私は、軽薄さにゆらゆらとたゆたい続けることになる。

 

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