Outside

Something is better than nothing.

蛇と蜘蛛の続き

Road

 

joek.hateblo.jp

(あまりにも疲れ果てていたときに蛇について書いたのだが、タイトルが「蛇と蜘蛛」という割に一切蜘蛛について触れていないのは自分でもいかがなものかと思いつつ……承前)

 蛇を考えると、つらつらと類推するのは蜘蛛のことで、蜘蛛は例えば朝蜘蛛は殺すなということがあるのだが、やはり野蛮な子供の頃の私は蜘蛛をよく殺した。そもそも蜘蛛は怖かったのだ。

 いくら益虫とはいえ、そのフォルムはまがまがしく、危険を感じさせた。噛んだり、毒を持っていたりするわけでもない蜘蛛を、ただ毒々しさや禍々しさという「らしさ」から殺したわけなのだが、それを反省して、最近ではできるだけ殺さないですむようにしている。

 中学生のとき、今はほとんど使うことのないなと思いつつ書き連ねるのだが、フィルムケースの中に蜘蛛を飼ったことがある。当時からして嫌いな蜘蛛だったのだが、なぜだかケースの中に閉じ込めておきたいと思ったのだった。その蜘蛛は家の中でこぢんまりと棲息しているような小さな蜘蛛で、潰すと「プチッ」という嫌な感触が指に伝うような、そういう蜘蛛だった。そのときのことを書いた小説すら、ある。

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 しかしなぜそのときに蜘蛛をケースの中に入れようと思ったのかは未だによく分からず、覚えているのはその中に蚊や小バエを入れてみたりしただけで、やがて飽きてしまい、ケースにティッシュを詰め込んで殺した。

 残酷な行為であることは否めない。生き物を無用に殺してしまう行為について、無反省に行っていた当時を思い返すと、たかだが蜘蛛ごときと人は言うかもしれないが、やはり何か影を落とすような後悔の念がある。

 ただ必要に迫られたり、どうしても「どうしようもない」と思ったときは、今でも殺すことがあり、それはそれで蜘蛛を殺すことの躊躇いこそ生まれただけでもまだマシなのかもしれないのだが、しかし彼らは相変わらず殺されてしまう立場なのであった。

 殺生というと、どこか厳かな雰囲気があり、その言葉で思い出すのは杉浦日向子のマンガ「殺生」(『ニッポニア・ニッポン』収録)なのだが、この言葉から想起する殺生の様態というものは何か抜き差しならない命のやりとりといったものだった。 

ニッポニア・ニッポン (ちくま文庫)

ニッポニア・ニッポン (ちくま文庫)

 

 (杉浦日向子の「殺生」を元にして書いた掌編)

note.mu

 しかしながら蜘蛛を殺す行為の中に殺生の抜き差しならない命のやりとりといった様はなく、どちらかといえば圧倒的に優位な者による気まぐれな慈悲といったものしかそこにはないように思われる。もちろん蜘蛛の中には猛毒を持つものもおり、その毒が人間を死に至らしめることも承知の上で、しかし蜘蛛は圧倒的に殺される立場なのだ。

 朝蜘蛛は殺してはならず、夜中に口笛を吹くと蛇が出るという私の幼い頃の世界観の中で、蛇というものは出てくるだけで殺されることはなかったが(そして実際に蛇を殺したことはない)、蜘蛛は幾度となく朝にしろ夜にしろ殺されてしまうのだった。