Outside

Something is better than nothing.

インナージャーニー

walking

 

 今はもう解散してしまったandymoriというバンドがいる。「Follow me」という曲から、このバンドに嵌まって、アルバムは全部借りた。


andymori "FOLLOW ME"

 たまたま後輩が好きだったこともあって、解散ライブのブルーレイを借りたりもしたのだが、彼らのアルバムの中に『光』というものがあって、その収録曲に「インナージャーニー」という曲がある。

 旅に出よう 旅に出よう 旅に出よう 歌いながら

 歌詞の中にそういった言葉があり、なんとなく口ずさむことが多い。とても好きな曲の一つだ。


「インナージャーニー」~andymori ライブハウスツアー"FUN!FUN!FUN!"ファイナル @ LIQUIDROOM~

 また、この曲のタイトルはどことなくペソアを思い出させるのだった。「不穏の書」のなかに、旅に関係する言葉がいくつか出てきて、それが私にとって非常に思い入れの深いものとなっている。

 私は旅をした。ただそれだけのことだ。旅をするのに数ヶ月も数日も要さなかった、いや、いかなる時間も費やさなかったと説明する必要はなかろう。私はもちろん時のうちを旅したのだ。しかし、時を一時間とか一日とか一ヶ月と数えるような、時のこちら側を旅したのではない。私が旅したのは向こう側なのだ。あちらでは時は測ることができない。時は過ぎるが、それを測ることはできない。言ってみれば、自分が生きているのを見る時間よりも速いのだ。たぶん、読者はこの文章にどんな意味があるのかと自問しているにちがいない。そんな誤りをおかしてはいけない。言葉や物の意味を訊ねるなどという子どもっぽい習慣は捨てることだ。
(「不穏の書」より、フェルナンド・ペソア『[新編]不穏の書、断章』所収、澤田直訳、平凡社ライブラリー、277-278頁)

 歩いて実際に外に出て小旅行めいた散歩をするときに、このandymoriの「インナージャーニー」とペソアの「不穏の書」を思い浮かべることになる。内面の旅、おそらくどこへも行かないことになる旅。

 たぶん私たちは歩きながら、結局はどこへも行かないことになる旅を経て、しかしどこかに最終的には行き着くかもしれない予感を感じているのかもしれない。以前に帰る場所はあっても帰るべき場所はないということを盛んに小説の中に取り入れていた時期があるのだが、ある意味でそこに繋がるかもしれない。「私は旅をした。ただそれだけのことだ」を繰り返しながら、こちら側を旅したつもりの私はいつの間にか向こう側を旅しているのかもしれない。

 ゆっくり歩きながら、だんだんと寒くなってきて暗くなるのが早くなってきたと思う。子供たちの声が公園を通るたび聞こえる。道行く私たちの存在など、彼らの生命力からすれば存在しないにも等しい傲岸不遜な熱狂を、楽しげに眺めながら家に帰るのだった。