Outside

Something is better than nothing.

食嫌い

The bitter end

グロテスクな食

 食べるという行為に潜む、何か物々しさのようなもの、グロテスクさを知っていながら表面上は美味しいや不味いといった価値観によって取り繕われていることが妙に気にかかる瞬間はあり、そういったものを突き詰めていけば肉類はおそらくそこにある血腥い事実によって食べられなくなるに違いないと思うのだが、けれども私は肉類は好きだし食べているのだから、この食というものの罪深さに戦くよりほかない。

 どうしようもないレベルの偽善がそこには働いているのかもしれず、要するに生命を搾取した結果として自分が生き長らえているのだが、はたして自分は生き長らえていきたいかと言われれば、これはもう生命維持としての本能から腹が空く上に喉も渇くので仕方なく食物を口に運んでいるので、これは意思なのかどうかというところはよく分からない。

好き嫌いの変遷

 だからか、私は食べ物の好き嫌いがよく変わる。

 昨日までは好きだとたしかに言っていたものが、翌日には嫌いになっている。実際にはどちらも食べられるし、大抵のものについて「本当に食べられないもの」という意味での嫌いなものはない。ただ、単に食べることそのものが嫌いなのだ。

 一時期、完全食「COMP」を利用していた。昼食をCOMPに置き換えていたのだが、利便性はともかく、あらゆる人から何度これが完全食であることを説明したところで、「それで大丈夫?」という質問というかヤジを受けるので、いちいち答えるのが面倒臭くなってしまって止めてしまった。しかしながら、(そういったことを言ってくる)人々は「食べること」を行わない限り、おそらくは許してくれないのだろう、と思う。

www.comp.jp

食に取りつかれる

 もちろん私も美味しいものを食べることは好きだ。あまり裕福ではないので贅沢はできないのだが、それでも美味しいものをできるだけ多く食べたい。けれども、日常的に仕事の合間を縫って得る食事というものは、「美味しいもの」というラベリングはまずされない代物であり、端的に「栄養補給」ではなかろうか、とも思う。そもそも私は出不精なので会社のランチタイムに外に出るのを好まないのだった。

 COMPは不味くはない。美味くもないけれども、私は昼食に毎日サンドイッチを食べ続けたり、コッペパンを食べ続けることに抵抗はないので、むしろCOMPの方が栄養もたくさんあっていいのでは、と思っていたのだった。

 つまり栄養的にはパン一個の方がよほど不健康なのに、COMPを飲んでいるときはあれほど出されたちょっかいが、サンドイッチにした途端になくなってしまった。人々は「食べること」に取りつかれているのである。

コスパ

「栄養補給」(と私が考えている職場での昼食)など、いかなる手段を取ろうが、こちらの勝手ではなかったはずではないか。しかしながら、少なくとも固形物を「食べること」を行わない上、それは食とは見なされないのである。

 コストパフォーマンスで考えても、電話番込みの昼食時間だったこともあり、さっと飲み干せるCOMPの方が楽であることはたしかで、事実、私はサンドイッチにしてから、もぐもぐと咀嚼しているときに電話を受けて、出られなかったことが何度かある。それでもなお「食べること」に拘る必要が、はたしてあるのだろうか。

 

【関連記事】

  食べることには常に複雑さがつきまとうわけだが、その中でも多くの人に提供する食についてはとりわけ問題になるのであった。

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