折りたたまれた手紙
封筒の手紙
そういえば私にも何通か手紙は受け取ったことはあり、その保管については捨てるのも何だし、ばらばらにしまってしまうと散らかってしまうので、普通のクラフト封筒にしまうことにしている。
封筒の中から手紙を取り出して、読み返すこともある。亡くなった祖父からの手紙を久しぶりに読み返したりすると、時間の差というものに思いを馳せたりもする。今となってはすでにこの世の者ではない人物からの送られた手紙というものは、読み返すとさまざまに思い出が蘇ってきて、不思議な気分になる。
たぶん祖父の書こうとした文意とはまったく別の文脈がそこには形成されており、折りたたまれていた手紙は封筒の中から取り出されることになるのだが、その手紙を開いて読むと、そういう気持ちに包まれてしまうのだ。
筆跡の中の身体
もうなんて書いてあったか思い出せないのだが、上京したばかりの頃に、SNSを通じて仲の良かった方から手紙をもらったことがある。そこに書いてあった内容は他愛のないものだったけれども、その手紙は印象に残っていた。
正直に言えば当時はやや気味が悪い要素があったことは否定できない。たしか住所を教えたような気がするので、先方が悪いわけではないのだが、それでも実際に送られてくると、他人の文字、筆跡を見ることになり、そこには視界を介さない他人の身体の生々しさがあるようだった。むしろ顔も声も知らないからこそ、その筆跡から想像される人物像が妙に生々しく浮き上がってくるのだ。
不用意なことをしたものだと当時は後悔したのだが、引っ越しの際に失われてしまったその手紙の記憶は、どんどん私の中で変化している。折りたたまれた手紙は、開かれるたびに変化していくのだ。
二十三通の手紙の変化
手紙というには長かった夏目漱石の『こころ』における先生の遺書は、本文中にもあったように折りたたまれており、そうであるがゆえに袂にしまうことができる代物だった。
けれども、その手紙に限らず、手紙というものは折りたたまれてしかるべきものではなかろうか。その分量が物理的にどうであれ、手紙は折りたたまれ、袂や封筒、あるいはタンス、さまざまな入れ物に投げ込まれていくものではないか、と。
そして、そこに書かれている文章もまた、折りたたまれてはいないだろうか。一見すると、そこには単純な文意しか書かれていない。けれども、時間の経過、あるいは状況の変化によって、そこに書かれ、折りたたまれた文章が開かれる。すると、文章は最初に読んだときと、まったく違う様相を示している。
あのとき、あの手紙はああいうことしか書いていなかったはずなのに――けれども今読み返すと、それとは異なった意味を持つようになる。よくある誤読の可能性というものでもない。それはそのときにおいてその手紙としての役割を十全に果たしており、けれどもその手紙は折りたたまれているがゆえに開いたときには、さらなる意味を付与されているのだ。*1
手紙の行き先
机の上の手紙は、折りたたまれ、すでに封筒の中に収められた。
おそらくは当分の間、それはふたたび読まれることなく封筒の中でひっそりと開かれるときを待つことになるだろう。やがて何かのきっかけによって封筒が開けられ、ふたたび読まれることになるその手紙は、当時の文脈を超えて新たな意味を持つに違いない。
今はまだそのときではない。ふたたび読まれるときを、ただ待つばかりなのだから。
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