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Outside

Something is better than nothing.

長い手紙をしまう場所

Scroll

アルファベット

 高校生のときに教科書に抄録されていた夏目漱石の『こころ』を読んだことがある。その抄録部分は前半部分ではなく後半部分であったために、あのとてつもなく長い手紙の部分(「下 先生と遺書」)を読んでいたことになるので、後に『こころ』をきちんと最初から読むまで、長らく私は『こころ』を「下 先生の遺書」を主とした小説だと思っていた。

 年老いた国語教師が、何度も同じ話を繰り返していたのを覚えている。「夏目漱石はほとんどの小説を新聞に連載しており、だいたい毎日原稿用紙4枚程度書いていたのだ」と。だから「『こころ』の一章はおおよそそのくらいの分量なのだ」と。

 また私はここで登場する「K」の、アルファベットの響きが好きだった。「ケー」あるいは「ケイ」。記号的でありながら、日本人の名前や渾名としても使われるこの響きは、日本語の小説のなかで使われる相応しいアルファベットであるとは言えないだろうか。

 そして「K」は、おそらくカフカを経て、村上春樹の「七番目の男」(『レキシントンの幽霊』文春文庫に収録)に引き継がれることになる。ここで登場する「K」もまた「私」と親しくし、「私」が原因とも言える出来事で死を迎える。

レキシントンの幽霊 (文春文庫)

レキシントンの幽霊 (文春文庫)

 

 長い手紙

『こころ』は、先生の長大な遺書が登場する。この手紙は、さまざまなところで取り上げられているように、まず書くのに時間がかかり、次に並の分量ではない。

 それは普通の手紙に比べるとよほど目方の重いものであった。並の状袋にも入れてなかった。また並の状袋に入れられべき分量でもなかった。半紙で包んで、封じ目を鄭寧に糊で貼り付けてあった。私はそれを兄の手から受け取った時、すぐその書留である事に気が付いた。裏を返して見るとそこに先生の名がつつしんだ字で書いてあった。手の放せない私は、すぐ封を切る訳に行かないので、ちょっとそれを懐に差し込んだ

夏目漱石『こころ』、「中 両親と私」十六より、太字は引用者)

 こうあるように、「先生」の手紙は「並の状袋に入れられべき分量」ではなかったのである。どこかで原稿用紙に換算すると230枚近くになるといったものを見かけた覚えもある。

 手紙というものは、得てして思いのほか長くなり、なおかつ急いで書かれるものであるのだが、ここでの手紙の分量はたしかに異常と言って差し支えないレベルではある。「ちょっとそれを懐に差し込んだ」「私」の懐の広さに感無量の思いを抱きながら、けれどもそれはやはりそのままの手紙というわけではなく、折りたたまれている。

  私は繊維の強い包み紙を引き掻くように裂き破った。中から出たものは、縦横に引いた罫の中へ行儀よく書いた原稿様のものであった。そうして封じる便宜のために、四つ折りに畳まれてあった。私は癖のついた西洋紙を、逆に折り返して読みやすいように平たくした。

(同前、「両親と私」十七より、太字は引用者)

「四つ折りに畳まれてあった」手紙は、その内容の長大さを余すところなく伝えるための便宜だが、手紙というものはその郵便上の理由ないし封筒に収められるがゆえの容器上の理由により、折りたたまれている。

こころ

こころ

 

 投げ込まれる手紙

 この折りたたまれた状態というものが、私にとって非常に興味を持つのだった。折りたたまれた手紙という主題は、手紙のメッセージを伝えるメディアとしての何かを感じさせる。

 夏目漱石の『こころ』の中で、「先生」の遺書は、原稿用紙に換算して(たぶん)230枚ほどの「並の状袋に入れられべき分量ではなかった」ものだが、それは「四つ折りに畳まれて」おり、その遺書(手紙)は後々に私たちが読むべきところとなる。

 けれども、「私」は「ちょっとそれを懐に差し込」むことができる。

 私はまた病室を退いて自分の部屋に帰った。そこで時計を見ながら、汽車の発着表を調べた。私は突然立って帯を締め直して、袂の中へ先生の手紙を投げ込んだ。それから勝手口から表へ出た。私は夢中で医者の家へ馳け込んだ。私は医者から父がもう二、三日保つだろうか、そこのところを判然聞こうとした。注射でも何でもして、保たしてくれと頼もうとした。医者は生憎留守であった。私には凝として彼の帰るのを待ち受ける時間がなかった。心の落ち付つきもなかった。私はすぐ俥を停車場へ急がせた。
 私は停車場の壁へ紙片を宛がって、その上から鉛筆で母と兄あてで手紙を書いた。手紙はごく簡単なものであったが、断らないで走るよりまだ増しだろうと思って、それを急いで宅へ届けるように車夫に頼んだ。そうして思い切った勢いで東京行きの汽車に飛び乗ってしまった。私はごうごう鳴る三等列車の中で、また袂から先生の手紙を出して、ようやく始めからしまいまで眼を通した。

(同前、「両親と私」十八より、太字は引用者)

   危篤の父親をほっぽり出して、「私」は「先生の手紙」を読むし、東京に向かうのだが、「私」はとても簡単に「袂」にこの長い手紙を「投げ込ん」でいる。一説には、というか、想像する限りかなり分厚いこの長い手紙は、「縦横に引いた罫の中へ行儀よく書いた原稿様のもの」とあるから、ものすごい小さな紙にものすごく細かな字でびっしり書いた豆本のような手紙というわけではないらしい。

(続く)

 

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  2. 「K」というテーマ
    夏目漱石『こころ』とおそらくはカフカの『城』などを経て、村上春樹は「七番目の男」にて「K」の系譜とでも言うべきものを引き継いでいるのだろうが、私にもその「K」の系譜に連なろうとした作品がある。「佳日」という作品だ。この作品では「七番目の男」のあとに「K」が語り始める。
    機械

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