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Outside

Something is better than nothing.

重荷を背負う蛇

社会

Darkness 

庭の教訓

 ヴォルテールの『カンディード』に出会ったのは、いつの頃だっただろうか。岩波文庫に収録されていたそれを読んだときに、あの有名な庭の教訓「自分の庭を耕さなければならない」(翻訳によって表現はかなり変わっている)ということについて、当時の私はよく考えていたものだった。私の人生観に対して影響を与えた、と言えるだろう。

 そして、最近『カンディード』が新訳で出て、私はそれを労働組合の会議が終わったあとの渋谷の本屋で買ったのだった。そのときはくたくたで、仕方なく義理で参加した会議は、いわゆるダメな会議としてだらだらと喋るだけで終わるようなものだった。質問も出ないしレジュメも面白くない。酷いものだった。

 けれども渋谷の本屋で光文社古典新訳文庫を見かけたときに、何かパッと周囲が明るくなるような、そんな印象を受けたのを覚えている。疲れ切って頭もぼんやりしていたときだったが、その本を見かけた途端に明晰さを取り戻したような気がした。

 帰りの電車の中で、さっそく購入した『カンディード』を読んでいく。家に帰っても読み進め、翌日には読み終わっていた。久しぶりに読み返した。岩波文庫で読んだときは、図書館で借りて読んでいたこともあるのだけれども、とにかく古い本で読むのに骨が折れたのだ。

 翻訳者が変わると、作品の印象も変わる。当時読んだときは、結末における庭の教訓に注意が向いていたが、光文社古典新訳文庫で読んだときは以下の箇所が印象に残った。

重き荷を背負うがごとし

 私は貧しさと汚れにひたったまま年老いました。お尻も片方しかありません。もとは教皇の娘だったことを、いつも思い出してしまいます。何度も自殺しようと思いながら、やはり命は捨てたくないとも思うのです。こういう滑稽な意志薄弱が、おそらく私たち人間のもっとも情けない性分のひとつでしょう。だって、重荷を地面に投げ捨てたいと思いながら、それをずっと担ぎつづけたいとも思うなんて、もう愚劣の極みではありませんか。私たちは、生きていることがどれほどおぞましくても、それでも命に執着する。つまり、最後には自分の心臓まで食べられてしまうのに、人間はやがて自分を飲みこむ大蛇を愛おしそうに抱えている。

ヴォルテールカンディード斉藤悦則訳、光文社古典新訳文庫、2015年、73頁、太字は引用者)

 仕事がつらかったとき、私はいつも死を考えた。「何度も自殺しようと思いながら」、けれども目を閉じて、死後の暗闇を想像すると「やはり命は捨てたくないとも思う」のだった。そうして、ひとしきり暗い空想を楽しんだあとに、翌朝の出勤を待つのだ。

 以前に知り合いがこう言っていたのを思い出す。「自殺するのは勇気がある人だ」と。たしかにそうなのだった。想像の果てにある死というものは、どう考えても恐ろしい。「滑稽な意志薄弱」、つまり「私たち人間のもっとも情けない性分のひとつ」が、しかし私たちの命を救っている。

重荷を地面に投げ捨てたいと思いながら、それをずっと担ぎつづけたいとも思うなんて、もう愚劣の極みではありませんか」という台詞は、妙に刺さるのだった。

 徳川家康みたいである――「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」。 

カンディード (光文社古典新訳文庫)

カンディード (光文社古典新訳文庫)

 

大蛇に飲まれる

 余裕を失ったとき、異変が訪れる。先日起きた電通のある1年目社員の過労自殺は、多くの議論を巻き起こしたことは記憶に新しい。それに関連して描かれたであろう、ブラック企業時代の過労による自殺未遂を扱ったマンガが掲載され、これも反響を呼んだ。

www.huffingtonpost.jp

 こういった症状は非常に共感できるものだ。このマンガの中では、さまざまな選択肢を「道」や「扉」といったモチーフに喩えている。肉体および精神の疲労が蓄積され、追い詰められていくと「大蛇」が「自分の心臓」を飲み込んでしまうのだ。

全人格労働

 この過労による判断能力の著しい低下と、それに伴う死への接近は「全人格労働」を思い起こす。

news.yahoo.co.jp

 この記事の中で「全人格労働」とは、「労働者の全人生や全人格を業務に投入する働き方」と説明されている。本来ならば、金銭の対価を得るための労働力(人生における部分的な時間)の提供が、いつの間にか範囲が拡大し、すべてをかけてしまうようなものになってしまっている。

 たしかに何かに対して夢中になって取り組むことは楽しいということは否定できない。仕事であれ趣味であれ、没入して何かを取り組んでいるときに、人間は活き活きとした表情になっているだろう。身体的な疲労感はあるけれども、気持ちの上ではまだまだやれるといった。

 この没入が、過剰に労働に結びつくことで「全人格労働」と言われる働き方に変化していくことになる。仕事にやりがいを感じることもあるだろう。責任を感じることもあるだろう。

 けれども、不適切な状況下において、その感じ方が不健康な方向に行ってしまうことは先のマンガを読めば明らかだ。この状態になりやすいのは作中にある通り、まじめな人だろう。指示や規則に対してまともに反応してしまうからだ。たとえそれがどんなにおかしなものであったとしても。

大いなる蛇の息子

カンディード』の引用の中で扱われている「大蛇」という言葉から、私は連想したものがある。「川を泳いで渡る蛇」という舞城王太郎の短編小説で、該当の箇所を引用しよう。これは主人公「僕」が妻の「栄美子」を迎えに行くときに、夜の多摩川で蛇が泳いでいるところを見かけたことから、さまざまな連想を「蛇」を元に行っている箇所だ。

 僕と栄美子を対立させる必要などどこにもない。僕も栄美子も同じく人間だ。それで神が蛇なら僕たちは皆揃ってリヴァイアサン=「大いなる蛇の息子」であり、神が蛇でなくて、僕たちの形の基となった存在であっても、僕たちは同じく神の子である。どちらにしても神の庇護を受けるべき存在だ。

「頼むぜパパ」

舞城王太郎「川を泳いで渡る蛇」、『阿修羅ガール』収録、新潮文庫、358頁)

  やがて「自分の心臓」を飲み込む「大蛇」を愛おしそうに抱える私たちの存在もまた、「大いなる蛇の息子」ではある。そして、そうでないにしてもいずれにしても神の庇護を受けるべき、ということも言えるだろうが、ここでは宗教観を扱うつもりではないのでひとまず置いておこう。

 けれども「頼むぜパパ」というある意味で楽観的な台詞は、どこか私にとっては救いのような気がする。それは「全人格労働」としての働き方に対し、ふっと力の抜けた、背負ったつもりの「重荷」は 自分の側にはないような、そんな印象を受けるのだ。

 私たちの背負っている「重荷」というものは、実は私たちの側にはない。私たちのものではなかった「重荷」を「地面に投げ捨てたいと思いながら、それをずっと担ぎつづけたいとも思」っているわけであり、たしかにそれは「愚劣の極み」としか言いようのないものとなってしまうのだろう。

 だから「大いなる蛇の息子」として「頼むぜパパ」と「最後には自分の心臓まで食べ」てしまう「大蛇」に、その「重荷」を任せることもまた必要なのかもしれない。「愛しそうに抱える」だけが向き合い方のすべてではないように。 

阿修羅ガール (新潮文庫)

阿修羅ガール (新潮文庫)

 

 

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