ふくろうカフェの思い出
鳥
ヒッチコックに『鳥』という映画がある。いわゆる動物パニック物の映画なのだが、あまり数多く観ていないヒッチコックの映画の中で、『鳥』は印象に残ったものに入る。
鳥の持つ表情のなさが恐ろしく、何を考えているのか分からないためホラーとして描かれているのだろうと思われるのだが、結末においては辺り一面鳥だらけとなってしまい、そのディスコミュニケーションっぷりは来る人にはかなり来るだろう。
しかし、鳥はもちろん恐怖の対象というだけではない。むしろ私は鳥が好きだった。
上野動物園に行ったときに、私は鳥の美しさに涙した。ペリカンの、あの堂々とした様に、溢れんばかりの生命力を感じ取ってしまい、思わず落涙した。そのときの私は就活で精神的に弱っていた。目の前のペリカンは、美しいものは美しいということを主張していた。文字に起こすとなんだか馬鹿らしい存在のような気もしてくるペリカンだけれども、そのときのペリカンの姿は私の精神を救ってくれたのだ。
動物園に行ったときに、もっともテンションが上がる動物は鳥類である。彼らの姿は感動的で、『鳥』において不気味に描かれていた姿も、そこまで怖いものではなかった。
ふくろうへ至る道
先日、私は妻に誘われてふくろうカフェなるものに行った。私はふくろうが好きだった。単に好きというだけでなく、可愛いふくろうグッズがあれば、ついつい買ってしまい、玄関に飾るくらい好きだった。けれども、実物のふくろうに触れたことはなかった。
以前にふくろうについて調べたときに、ふくろうのえさは冷凍ネズミ、ということを知って以来、ゆくゆくは自宅で飼おうということは諦めたし、やはりふくろうは猛禽類なんだよなあという思いを新たにしたということは多少は関係ある。
しかし一番の要因は億劫だったということである。出不精の私には、ふくろうカフェなる存在を知っていたところで、行くのが面倒臭かったのだ。そこへ妻がふくろうカフェに行こうと誘ってくれたのだった。妻は動物が苦手なのに。
ふくろう好き
なぜ私はふくろうに惹かれるのか。
それは当時好きだった女の子が、あるとき私にふくろうをモチーフにした大学のマスコットキャラクターを紹介したことに由来する。紹介されたときはなんとも思わなかったが、上野動物園の出来事があってから、あのマスコットキャラクターのことが妙に気にかかるようになった。
大学を卒業する頃には、そのふくろうのマスコットが大好きになっていた。「だって可愛いんだもん」という頭の悪い感想しか持っていないのだが、けれどもだって可愛いんだもんというくらいに可愛いから仕方ない。
公式グッズのぬいぐるみはそのマスコットの可愛さを充分に伝えることができなかったので、私はそのキャラクターが印刷されたクリアファイルを購入し、自宅に飾っている。
カフェのふくろう
実際にふくろうカフェに訪れると、まず店員からふくろうに触れるときの注意事項が説明され、私たちはそれに従い、同意書を記入した。衣服が汚れたりする可能性があるためだった。その後、いざふくろうに触れることになるのだが、そのカフェにいたふくろうは単純に言えば大中小の3種類、計8羽だった。
正直言って、大きいやつは怖かった。
羽がばっさばっさ言っていて、近づくとくちばしがカチカチと言っている。どう考えても威嚇している。中くらいのやつと小っこいやつは怖さを感じなかったが、大きいやつは怖い。聞くところによると、「不用意に触れると指くらいは持って行きますねえ」という。
指
さしたるものを掴むわけでもなく、夢も掴めない指ではあるが、指のない生活を想像すると不便きわまりない。私は私の指に未練がある。
私は小っこいやつから攻めることにした。小さいふくろうは、手のひらサイズであり、触るとこちらが身もだえするくらいに可愛い。というか、思い出して書き連ねながら胸がときめくくらいに可愛い。
いたずらに触れると壊れてしまいそうな繊細な工芸品のような、完璧なフォルムとキュートすぎる姿に、私は撃たれていた。可愛い顔して、こいつは雷なのだった。ひとしきり触れたあと、少しずつふくろうに慣れていった私は、中くらいのやつにターゲットを移した。
中くらいのふくろう
1羽は生まれつき失明しているふくろうのため、触れることはできなかったが、それ以外のふくろうに私は触れることができた。
「指――指が持って行かれるかもしれない」という危機感は杞憂に終わった。羽や頭を撫でていると、犬が甘噛みするように、触れる指をふくろうが甘く咥える。その様を眺めながら、種族を超えた愛すら私に感じさせるのだった。
一方で、妻はやや怖がっていた。トイプードルすら少し身構えてしまうくらいに動物が苦手な妻は、最初の小っこいやつならいざ知らず、下手すると「指を持って行かれる」中くらいからのふくろうは、可愛さよりも恐怖が勝るようだった。
大きいやつ
そうこうしているうちに単に触れているだけでは飽きてきた。見計らったようにえさやりタイムが訪れる。きっとネズミの肉なんだろうなと思いつつ、私は謎の肉をふくろうにやりながら、えさをつっつくふくろうの可愛さにやられていたのだった。
この時点で、まだ大きいやつには触れていない。他の方々がまず最初に触っており、カチカチ言っているくちばしが恐怖を伝えてくるのだが、しかし怯えてばかりもいられず、やがて順番が回ってくる。
「どうぞ」
と言われて、その場に突っ立っているわけにもいかず、私は大きいやつにえさをやった。さすがに大きいだけあって、力が強い。謎の肉を啄む速さも、先ほどまでとは打って変わり、野性を感じさせた。
彼らにあげるえさも少なくなってきた頃に、店員さんに「腕に乗っけてみますか?」と言われる。え、と思ったところ、面白がった妻が「さあ」と言うように促すので、私はカチカチと対面せざるを得なくなったのだ。「指が」と思ったことは言うまでもない。というか、距離的に「目が」となる可能性すらある。
克服
こうなれば死の恐怖となる。しかし、グローブをはめていざふくろうを腕に乗っけると、予想外に可愛いのだった。羽がばさばさ言っている。本来ならば写真を撮りやすいように、こちらを向かないはずのふくろうが、勢いよく腕に飛んできてしまったため、ふくろうに相対していた。
瞳が、私をまっすぐ覗き込む。
店員さんの話によると、ふくろうが眼球を動かすことができないこともあり、首を約260度回すことで視界を確保しているらしい。いわゆるEXILEの「Choo Choo TRAIN」状態である。そんなにまっすぐ見つめられると、と思いつつも、逆にばっさばっさと羽ばたかれるとそれはそれで迷惑なので、仕方なくそのまま写真に撮られたのだが、だんだんと大きいやつも大きいやつなりにふくろうなのだなあという謎論理がやってきて、中くらいのやつと小っこいやつみたいに臆することなく触れることができるようになった。
いざ慣れてみると、何のことはない、こいつらもふくろうなのだった。習性なのか、窓の外をずっと眺めている彼らの羽を撫でるのは、なんだか私に無関心な犬を撫でているようで懐かしい感じすらした。
そうこうしているうちに、ふくろうとの触れあいタイムは終わった。
帰り道
私は非常に満足していた。
ふくろうと、あんな親密に触れ合うことができるなんて思いも寄らなかったのだ。
私はけちなので、最初はふくろうカフェの値段に高いなあと思っていた。実際に訪れてふくろうと触れあってみると、ただ単に癒やされるわけで、ストレスがどんどん溶けていくのが分かった。
「この胸のときめきは何なのだろう……恋?」とか馬鹿な話をしながら、帰路につく。