Outside

Something is better than nothing.

見ているようで、本当は見えていない

Color Study #7

私の財布

 ポール・スミスの財布を私は普段から使用している。この長財布との付き合いはもう5年となり、財布にこだわりを感じたことのなかった私としては大事に使用している気がする。あまりも傷もついておらず、というか傷がついたらかなり落ち込むくらいに。

 そもそもこの財布を購入しようと思ったのは、社会人になることが決まったからだった。「財布の値段の二十倍があなたの年収となる」といったブログかニュースの記事を読んで、今後のキャリア形成を明るい見通しにするためにも、それまで使っていた安物の有象無象な財布を刷新しようと考えたのであった。

 そういう経緯で私はデパートへ行き、いくつか財布を見て回った。そして私は出会ったのだった。ポール・スミスの長財布に。見た瞬間に、「これだ!」と感じたのを覚えている。派手すぎず、地味すぎないその財布が気に入り、購入した。それ以来、大事に使っている。

 金運の方はそれなりであり、キャリア形成の方は失敗しているのだが、しかし年収の部分については当たっているのかもしれない。それはそれとして、先日ポール・スミスのインタビュー記事を読んだのだった。

ポール・スミスの写真観

i-d.vice.com

 ポール・スミスの長財布を使用しているからといって、ポール・スミスに強い関心を持っていたというわけでもなく、この記事もたまたま目に留まったので、だらだらと読んでいたのだが、「写真観」について語るところが妙に気になった。

ご自身は写真も撮られていますね。写真の魅力とはなんでしょうか?
P.S[ポール・スミス].:現代は、誰もがカメラの付いたスマホを持っている。誰でも簡単に、瞬時に写真を撮り、見て、それをヴィジュアル日記のように構成して世界のひとびとと共有することができるのは素晴らしいことだよね。
僕の写真観は、父親が言っていたところの「瞬間を捉える」というものをベースとしている。誰かが何かをしているところでもいいし、美しくても変でも何でもいい――その瞬間を捉えるんだ。アンリ・カルティエブレッソンやジャック=アンリ・ラルティーグもそうした写真観をもっているけど、ふたりの才能は突出しているよね。僕の父親も写真を撮るのが上手かった。父は地元でカメラクラブを発足したひとなんだよ。彼は「よく見ろ、人間は見ているようで、本当は見えていないんだ」と僕にモノの見方を教えてくれた――だから僕はヴィジュアル感覚に長けているのかもしれないね。

(前掲記事より、太字原文、[]内引用者注)

 この記事の中でポール・スミスは写真を「瞬間を捉える」もので、また人間は「見ているようで、本当は見えていない」という風に述べている。私はこの箇所に引っかかった。

ビジュアルファースト

 先日、義祖父の見舞いの帰り道にずっとビジュアルファーストという思いつきを妻に話していた。モバイルファーストという言葉から連想した言葉だけれども、最近のコンテンツの作り方とその受容について、画像や動画といったビジュアル面からアプローチがあり、その後テキストベースのメッセージや説明が述べられることになる。

 例えば新聞の見出しは、テキストベースで考えられているものだろうが、ウェブ上のコンテンツはビジュアルベースで考えられているはずで、あるメッセージを伝えるためにビジュアル面の構成を前提にすることを(おそらくすでに何らかの名前があるのだろうが、便宜的に)ビジュアルファーストと名付けた。

 他方、私は文章を書くのが好きなので、テキストベースで物事を考えることが多い。インスピレーションの多くは、テキストとして来る。そしてテキストベースで物事を考えるためか、ビジュアルの筆頭である写真が嫌いだった。

写真嫌い

 ポール・スミスは写真を「瞬間を捉える」ものとして認識している。だが、私は「瞬間を捉える」ゆえに写真が嫌いだった。その「瞬間」というものは、あくまでカメラ側の時間をベースにしているからだ。

 人間はたしかに「見ているようで、本当は見えていない」し、見た記憶というものはその瞬間を経ると、途端に劣化していく。人の顔を思い出そうとしたときに、大抵はその細部までは思い出せないだろうが、ビジュアルでの想起というものは記憶としての限界があるのだろう。

 プルーストはマドレーヌの香りを元にして、その壮大な小説を書き上げたわけだが、『失われた時を求めて』の中にこんな描写がある。

(…)そうした感覚の働きはおそらく、生きて目の前にいる存在が示す多くの形やあらゆる味わいや動きをあまりに寛大に受け入れるので、通常、私たちがその存在を固定して考えるのは、相手を愛していないときに限られる。だが逆に同じモデルでも、愛している場合は絶えず動く。だから、モデルの写真をいくらとっても失敗するだけだ。ジルベルトの顔立ちがどうだったか、ただ彼女が私に顔を向けてくれる貴重な瞬間を別にすれば、私は本当にわからなくなっていた。思い出すのはジルベルトのほほ笑みだけで、愛しいひとの顔を再び見ることができないまま、どんなに思い出そうとしても、私の記憶にこれ以上ないほどの正確さで蘇り、眼前にくっきりと浮かぶのは回転木馬の係員の男と大麦糖売りの女の用もない顔で、私は苛立つばかりだった。

プルースト失われた時を求めて 3第二篇「花咲く乙女たちのかげにI」』(高遠弘美訳、光文社古典新訳文庫、2013年、150頁、下線は引用者)

 愛しの相手の顔を思い出そうとしても、まったく別の顔を思い出してしまう。記憶というものの不確かさが、ビジュアルの想起を困難にしてしまっている。けれども、ここで「ほほ笑み」は思い出すことができるのだが、はたしてこれはビジュアルとしての「ほほ笑み」だったのかどうか。

 人の顔のビジュアル的な想起は不完全な代物であるが、一度会って話した相手の顔というものは、次に会ったときになんとなく覚えているものではないだろうか。おそらく人の記憶というものは、ビジュアル以外の何かが記憶としてこびりついている。だからこそ、ここでは(ビジュアル的なものを引きずってはいるだろうが)イメージとしての「ほほ笑み」を思い出すことができるが、「顔立ち」についてはまったく別人を想起してしまうことになる。

手を抜くこと

 たしかに「瞬間を捉える」能力は確実にカメラの方が上回っているだろう。それを見返せば、ビジュアル上の記憶の瑕疵はすぐに埋められる。だが、人間の記憶というものは「見る」ことにだけ特化しているわけではない。

 だからこそ、出来事に際して写真を撮る、つまり「瞬間を捉える」ということは、どこか記憶に対して手を抜いているような印象を受けていたのだ。

 例えば料理を食べる際に写真を撮る。そのときにカメラでその料理の写真を撮る。しかし、それはどこかで食事の記憶に対して手を抜いてはいないだろうか、と。その経験の中にあるものは味覚であり嗅覚であり、人々とのコミュニケーションであり、そういったものの総体が記憶を為している。そのため写真に収めて記録することで、出来事を処理してしまったかのような扱いをすることに、違和感を覚えていたのである。

瞬間を捉える

 けれども、もちろんこれは極端な考え方である。

 写真もまた、「瞬間を捉える」がゆえに、朧気な記憶の中で写真を見返したときの想起というものがあるはずだ。それはスマートフォンの写真アプリの、例えば一年前の同時期の写真を表示させる機能などで分かるはずだ。そのときに、マドレーヌの香りを嗅いだときのように、一気に蘇ってくる記憶はたしかにある。

 ポール・スミスの述べた写真観は、「瞬間を捉える」というものだが、私は「見ているようで、本当は見えていない」わけだったのだ。これはある種の比喩的な表現でもあったのだ。

 イメージによる想起というものは、テキストによるそれとは異なり、速やかなものである。理解というものの捉え方にもよるのだが、より浸透すべき事柄についての理解はおそらくテキストの方が優れているだろう。けれども、広告のような特定のメッセージを印象づけるためにはビジュアルによる伝達がもっとも効果的であろう。

  情報量が過剰に溢れている今となっては、「瞬間を捉える」写真の蓄積は、一種のテキストとして存在している。実際、写真データには撮影日時やロケーションといったメタデータが内包されており、単にイメージデータというわけではない。「見ているようで、本当は見えていない」データがデジタルデータとしての写真には存在し、その「見えていない」データによって、記録が補完されている。

 それは写真を見ても、想起できなかった要素、例えば日時や場所、SNS上でのコメントといったものだが、ビジュアルイメージを眺めながら、そういった無数のテキストに接しているということになるだろう。

 おそらく「瞬間を捉える」という言葉の意味は、ポール・スミスとしてはもっと抽象的なものだったのだろうと思う。それは目の前に起こっている風景を切り取り、目の前の出来事を残すための。

 けれども、今や「瞬間を捉える」ということは、その瞬間における出来事を写真に収めるだけでなく、その瞬間における日時といったメタデータをも内包することになる。そのときに写真として納められたそれらの記録は、記憶の想起のためだけでなく、言わばある種のテキストとして理解されることになるのではないか。