Outside

Something is better than nothing.

黙読から音読へ

 シェイクスピアのいわゆる四大悲劇の一つ『オセロウ』(菅康男訳、岩波文庫)を先日、妻と一緒に互いに役を割り振って音読していた。ある意味、演劇の練習みたいなもので、そこそこに感情を込めて読んでいたために、家の中で抑揚のある話し声が延々と続くという不気味な状況が生じていた、ということになる。
 そもそもなぜ声に出して戯曲を読んでいたかというと、理由は二つあり、一つは、妻が「友人が出演しているから」と言うので渋々観劇した座キューピーマジックの『グッドバイ』の影響がある。こういった演劇を人生で初めて観た私は、それなりに楽しい思いをしたのだった。二つ目は、音読を一日に三十分以上すると頭がよくなるという記事をどこかで読んだからで、それが嘘なのか本当なのか分からないにしろ、夫婦間のコミュニケーションをより活発なものとしたい私は、それをきっかけにシェイクスピアを音読しようと画策したのだった。
 しかし滑舌の悪い私たち夫婦は少し古くさく感じられる訳文と、そもそも言いづらい言葉の連続に何度も噛み噛みになり、さらには「デズデモウナ」や「キャシオウ」(妻は最後までキャシオウと「キャシャオウ」とを混在させて言っていた)といった登場人物名ですらまともに言えない始末。妻は漢字が苦手なので、何度も読み方で躓き、遅々として進まないリーディングとなった。しかも何度も止まるため、話の内容が一向に入ってこない。
 読むことと声に出すことは異なる次元で行っているため、ということになるのだが、しかし戯曲を読むという体験はなかなかに不思議なものである。小説とは違う形式で書かれたということだけならいざ知らず、それが実際に上演を前提とされている場合、私たちが読むテキストは声に出されることを待っている。けれども、まず読みの段階において声に出すことで理解が促されるということはあまり考えにくい。
 ……と思ってしまうところが、すでにヴェールに覆われた価値観ということになるのだが、たしか近代において音読から黙読へ至った経緯について前田愛が述べていたと思うのだが、そこでは例えば新聞がたくさんの聴衆の前で読まれていたという。連載小説も掲載されていたのだろうから、そこでは読むこととは音声的な入力だった、ということになる。けれども、今や我々のほとんどすべては、インプットに際して音声を必ずしも要しない。それどころか、声に出すことでむしろ理解が妨げられることもある。詩がとりわけ不思議な受容となり、黙読したときのリズムを音読したときに体感できないことがままある。それは肉体の発する声色が、黙読で抱くイメージと著しく離れているからだろうと思うわけで、それは本を読んでいるときに「何もの」かが喋る謎の声ではなく、読むことで喚起されるイメージが、肉声と合致しないということになるのだろう。