Outside

Something is better than nothing.

負けて後

 よくよく考えれば人生の中でかなりの回数、勝ち負けを意識してきたことになり、それは些細なことから、人生を左右するようなことまでたくさんあるのだが、その勝ち負けというものはいったい何なのだろうと思わなくもない。大した相違はないものの、その場の勝ち負けに拘りすぎて失敗をしてしまったことなどは何回もあるのだけれども、他方で無用な勝ちを拾ってしまう。
 それは同年代の同性との間で、まず最も起こるのかもしれない。あるいは兄弟。私は兄弟がいないので、この考えは脇に置きたいのだが、子供の頃から勝ち負けにおける優劣とそれに伴う快感を味わい続けてきた結果、たかだがじゃんけんでも勝てば喜ぶし、負ければ悔しい。大人になってうまくなったのは、その悔しさを表情に出さず、感情の大勢には影響を出さない方法であり、しかし負けたことの悔しさというものだけは、未だに残り続けている。
 例えば学歴、就職、結婚、ブランド、家、子供……その他諸々のさまざまな種類の優劣をつけるための物差しが人生のステージの中には用意されており、どこに力点を置くのかにより、各々のステージで優劣を争うことになる。それは「私は勝ちに拘らない」、「そのゲームには乗らない」という層にも同様に勝ち負けの価値観に巻き込まれている。気にしないことが肝要だが、例えば子供の頃に必ず一人はいたであろう誰かのように、その誘いに乗らないと幼稚に責め立てられることになる。やーいやーい、と。
 私は前述の通り勝ち負けを意識してきた人生を送ってきた。それは、避けようのないものなのだと思うし、今さら否定する気も起きないのだけれども、嫌な目に遭ったときに相手に対してどこか勝っている自分を想像したりするのも結局は勝ち負けのゲームに乗ってしまっているからに過ぎないからで、優劣の意識は人間の幼稚さの表れかもしれないが行動の原動力として確かにそこにある。それを否定してしまえばスポーツも芸術も面白くはないことになるし、パートナーを探すこともまた同様であり、仕事もそうなのだろう。それがすべてでないことを知っていればいいだけのことなのである。
 先日、熊本に行ったときに、負けんばい熊本というメッセージを至るところで目にしたのだが、そのときの違和感を記しておきたい。
 ここまで書いてきた勝ち負けというものは、常に相手がいるものだった。具体的な人間でなくても、同年代の平均的な人物と比較して、などといった形で、人間を対象にしてきたと言っていい。しかし、そこで目にした「負けんばい熊本」というものには、相手がいなかった。もちろん災害に遭ったときに、挫けてはいけないという意味合いで「負けるな」といったメッセージが出てくることは理解できるのだが、「負けんばい熊本」を数多く目にしてきたところ、この「私たちは地震には負けない」というメッセージの、「負け」というものはどういうものなのかと思えてきたのだ。
 地震に人が負けたとき、それは死を意味するのか?
 その意味で言えば、すべての人間が、というわけでないにしろ熊本の地震で人は亡くなっている。関連死を含めれば、さらに亡くなっていることになるが、彼らは果たして負けた側なのだろうか。いや、もちろん道義的に考えたときに必ずしも全面的にそう思っているわけではないのだが、この「負けんばい熊本」を目にするたびに、だんだんとこの「負け」が何なのかが分からなくなってきたのだ。
 かつて敗北を抱きしめた国民は確かに負けたのかもしれないのだが、それは明確な敵がいたからだった。敵による偉大な破壊を前に、ある作家は美しさすら感じ取ったことになるのだが、そのあっけらかんとした空白の美しさの後に、堕落した敗北が押し寄せてきた。たしかにそのとき人々は負けたに違いない。けれども地震は、どうなのだろう。私にはそこが判断がつかない。メッセージ自体の志向を否定する気は毛頭もないが――それは「このたびの地震で被害に遭われた方々に心よりお見舞いを申し上げると共に……」的なメッセージを、ある意味、どう否定すればいいのだろう?――どうしてその言葉が選ばれたのか、ということに対して疑問に思っているだけなのだ。
 敗北を抱きしめた国民は、おそらくはほとんどの人間が負けと認識できる状態にあったわけなのだが、「負けんばい熊本」というメッセージが出ている熊本県民は、少なくともまだ負けていない状態にあるわけで、しかしおそらくこのメッセージの重大な漏れはいったい何をもって勝ちになるかというゴールが存在していないことであり、それは復興が完了したときのことなのかもしれないのだが、いったい、ならば何をもって復興されたというのだろうか?という新たな疑問を生じさせるだけになるのだ。