Outside

Something is better than nothing.

さえずる鳥

 全部であったり、絶対であったり、結論であったり、結局であったり……つまりそういう総括的な物言いが好きな人間がいる。完璧主義者ではないにしても、クオリティに対する徹底性とでも言おうか、あらゆる曖昧さを排除した正確な考え。しかし、それは建前の世界の話でもあり、例えば「全力を尽くして仕事をします」という人間は、たぶん全力を尽くしていることはほとんどない。曖昧な、少し足りていない部分を残しつつ仕事をしている。それを甘えということもできるし、ずるさということもできるだろう。

 私は仕事をするのが好きなのだが、その一方で仕事に付随する人間関係は(おそらく多くの人がそう思っているに違いないと思っているのだが)好きではない。良いこともあれば、おおよそほとんどのことは悪い方にしか働かないもので、例えば上司の面子であったり、自分の都合しか考えない他部署の人間であったり、連携が悪いどころかするつもりもない同僚であったりと、さまざまある。そのほとんどは人間の営みと同じく無駄でどうしようもなく堕落したものであるのだけれども、生きる以上はそれに付き合わなければならない。

 働くことにつきまとうネガティブな印象が、人間を生きづらくしているのか?遊ぶことと働くことの近似について思いを馳せつつ、しかし遊ぶことと違って働くことは何かを得るための行動であることに違いがあるわけで、そこに意識の高低すらも関わってくるとなれば、なんだか面倒臭い印象しか抱けない。

 このようなことを思ったのは、先日Yahoo!の記事「仕事で私が壊れる 人生を搾取する『全人格労働』」(http://news.yahoo.co.jp/feature/154)を読んだからで、この「全人格労働」なる言葉に潜む恐怖が私を脅かしたのだった。「労働者の全人生や全人格を業務に投入する働き方」をそう言うのだが、多かれ少なかれ働くということはそういった要素を持つことは否定できない事実としてある。8時間の労働時間を思えばそうで、一日は24時間しかないのだから、そのうちの3分の1を労働に費やす私たちの多くは人生を労働に投入している。8時間を一つの基準として、これを睡眠に充てる場合、残りの16時間の活動時間のうち半分となる。そして労働の時間が延びれば延びるほど、半分から3分の1の占有率を誇る労働は、だんだんと人生そのものと取って代わることになる。

 人生とは私の側にある時間のことだろうと思うのだが、実際「私」というものは思っている以上に私の側にあるのだろうか?――ということが、形を変えつつ社会人になってからの私の一つの悩みの種ではあって、とにかくここでは「全人格労働」は少なくとも人生のためには存在していない時間となる。しかし、人間の生はそこまで大したものなのだろうか、という考えを抱かせてしまうほどに、私たちの人生は損なわれていると言うことはできないだろうか?

 すでに「全人格」なるものは「私」の側にはなく、仕事からその「全人格」を抜き去ったところでいったい何が残るのだろうか、とさえ思うのである。「私」の側に「全人格」が残るのか、仕事にはそもそもとして「全人格」なるものは存在していたのだろうか。そもそも、ということが抜けていないだろうか。そしてその鳥かごの中で、さえずっているだけなのではないのだろうか。