Outside

Something is better than nothing.

無限後退の夢

 先日、小野不由美が原作の映画『残穢』を観てきた。個人的にかなり好みの映画で、ホラーというよりは妙な気味の悪さが残るものだった。ということで、ここから先はネタバレを含むかもしれず、人によっては嫌悪するかもしれない。とはいえ、感想を書くわけではなく、そこで扱われた記憶の扱いについて考えていきたかったのだった。
 小野不由美の『残穢』の中で、あるマンションの怪異をきっかけにどんどん過去に遡ってその怪異の原因を探っていく。初めは現代だったものが、バブル期、高度成長期、戦前、明治……といった形で、因果関係の連鎖があり、まず初めに考えられた怪異の原因が複数に枝分かれしていき、それぞれの時代における当事者たちの死因や異常の原因となっており、新たな要素を付け足したりしている。その蓄積の果てに現代の複数の怪異が顕現することになるわけで、主人公たちは怪異の大元は何なのかと考えていくと、最後には彼らは諦めるくらい「昔」となってしまう可能性が出てくるのだ。
 これはホラーだけに関わるものではなく、日常生活の細々としたものに関わってくる事象である。慣習や食べ物といったものは、現代の私たちからすれば当然そこにあるものではあるものの、よくよく遡っていけば相当に昔から関わりを持っているものとなる。しかし、そのいちいちを突き詰めていったところで日常生活を正常に送ることはできない。ゆえに私たちはそれらを捨象して生きることになるのだけれども、あるとき不意に怪異は夢として立ち現れることになる。
 目の前の「もの」の過去や来歴を想像したときに、無限後退していくことになる。
 この馬鹿らしくも子供っぽい熱情を伴って想像される無限後退の夢は、空想の中でひたすらに拡大していくことになる。ある女性と話しているときに、以前彼氏と初めてセックスをしたときに処女のふりをしたことがあったという話を聞いた。それは彼氏が恋人は処女の方がよかったという価値観を持っていたからなのだけれども、束縛の強い人間はそういうところがあると思った。余計に酷くなると男と関わることすら拒否する人間もおり、そういったときにその彼女の来歴というものの消去は、果たしてどのようにして彼の中でなされるのだろうかと不思議でならなかった。例えば小学校のときのダンスで男の子の手を握ったかもしれない彼女の手は、果たして彼氏からすれば穢れてしまった、落とせない汚れなのか。禊ぎを経ることもできないほどの汚染なのだろうか。男性の医者が彼女の体に触れることもあっただろうし、考え出せばキリがない無数の手は、彼氏の束縛とは別に彼女の来歴に潜んでいる。過去はともかく、現在は、ということなのかもしれないのだけれども、しかし処女の如何は来歴の問題ではあるはずだ。
 食べ物のことを考えると、たまに私は気持ち悪くなってしまう。鳥たちは虫を食べ、あるいは駅前で吐かれた吐瀉物を啄むことになるのだけれども、食物連鎖の果てにそれらの鳥たちが私たちの口に入ることもあるわけで、いやそれを言えば糞尿ですらそうであるわけで、来歴、過去、原点を遡れば遡るほど、私たちのグロテスクな生のあり方が露わになってしまうだけである。
 つつがなく人生を送るには、結局のところ文化的な措置によって覆いを被された「虚構」を信じるしかないわけで、それは来歴の不確かな確かさといった逆説によって無限後退の夢から覚めるより他はないのだろうと思うのであった。
 
 
 異動とか異動とか異動とかによって更新のスパンが大幅に空いてしまった。